東京国立博物館 博物館に初もうで&東洋館リニューアルオープン その4

#その他芸術、アート

年末年始の番組をみていたら、高速増殖炉もんじゅできゃりーぱみゅぱみゅが新春シャンソンショーを開いた。という早口言葉が浮かんだんですが、どんなものでしょうか。

年初の「風を読む」で岸井は、民主と維新の議席数の差は三議席、といっていましたけど、あれだけ維新の映像を流せばそうもなるでしょう。自民党の圧勝に争点が隠れてしまった、といっていましたけど、テレビが争点隠しをしたのでしょう。いかにも他人事のように言う所がとても酷いと思います。

1~12月の朝日夕刊の原発とメディアの「3.11後」の回では、メディアの避難範囲の方が、国が発表した市民の避難範囲より広く取られていた「ダブルスタンダード」の問題。

ダブルスタンダードについて「これに応えようと、ここまで書いてきた」としながらも、最後まで読んでも特に応えた形跡が無く、雲仙の例を出して危険な区域内に入ることはできなかった、という内容をひたすら繰り返すだけ。そうではなく、自社ではこのようなところまで危険だと判断したので社員を退避させた、国ではここから外は避難しなくて良いとしているが、安全だとは思わないので国に対して避難範囲の見直しを要請するとともに読者には避難を提案したい、などと書けなかったことが問題であって、安全だと思えばそもそも退避しなければ良かったのです。
これに対する反省や、過ちが繰り返されることへの予防策が書き込まれていないのではないでしょうか。

そもそもありえる最悪の事態を思えば、国の避難範囲を少しずつ拡大していったやり方にしても、狭い範囲にしてもきわめてナンセンスであって、それに異議を唱えようとしなかったメディアの姿勢こそ一番に問題にされるべきなのです。SPEEDI隠しに加担したことについても、何の総括もされていないと思います。

後半は社説で脱原発を表明するまでの困難と果断について延々と書いていますが、表明すれば脱原発に新聞全体が向いているかといえばそれは大きな間違いで、ディティールに誤報を振りまき、政党の取り上げ方に差を付ければ全体としてみたときの方向性は変わってくるのです。

そもそも脱原発か原発推進であるか以前に、脱原発デモをまともに報じることができませんでした。デモを報じられない脱原発の表明、とは一体なんなのか掘り下げなければなりません。

そんなことが書いてあるかと思えば、脱原発に疑問を呈する社説についても取り上げていて、政府の主張と同じにならないため、一線を守った、などと意味不明の理由付けが書いてありますが、記事の内容に求められるのは示すべき方向性が正しいか正しくないかのみであって、政府の主張とは関係ないのです。要するに脱原発でもなんでもない社内の状態が表れているのであって、その背景には広告費など金銭的な理由がちらつくのが感じられるのです。

また、菅直人の政策に朝日の主張が影響している可能性を匂わせる所が、いやらしく、新聞人の気持の悪い所が出ていると思います。

「「菅おろし」の風圧が強まり」などと他人事のように書いていますが、その圧力の中心にあったのは、メディアの横並びの執拗な、間違えた内容を多く含んだキャンペーンであって、その中核にいたのは新聞です。
広告に加えて、電通や官僚を通した原子力ムラのコントロールでしょう。

「迎合主義に陥らない」など、ポピュリズムといった言葉が好きな朝日らしい言葉が並びますが、官邸前デモなどに示された(メディアのコントロールから離れた)民意と比べると遥に濁っているといえます。

メディアと原発ということでいえば、銀行との関係は核心的で外せないと思うのですが、それも出てきていないのではないでしょうか。

自分たちは悪くないよ、先進的なんだよ、という結論を出すための糊塗に幾重にも塗り込められた記事で「ダブルスタンダード」に対する見解を聞きたいがために無理をして読んでいましたが、特に答えは無く、途中で読んでいて気持ち悪くなってくるような特集でした。

メディアは旅行に行った(元)社員の名前一人も明らかにせず、しようとせず、それで責任など無い、すべて責任を果した、とスルーしてこれからも事業を続けて行く気なのでしょう。

1月10日の玉川総研は浜さんが出ていて、成熟経済を追い求めるべきだ、といっていましたけど、具体像は提示されなかったと思います。
かつてのような経済成長を追い求めるのはだめだ、といっていましたけど、このままだと電機メーカーは軒並み潰れて新しい産業の芽も出てこないという最悪の状態になりかねません。新陳代謝と革新を繰り返してひたすら前進する以外に生き残る術は無いと思うのです。

ただ旧来のやり方で、それをやろうと思うと破綻をきたしてしまうでしょう。安倍政権はまさにその方向に進んでいますが。

三丁目の夕日のばっちっちな時代に憧れるのは傲慢だ、ともいっていましたけど、今の人があの時代憧れるのは、今には無いある種の自由な雰囲気があったからであり、そこを追うことは経済成長にとっても非常に大切なことだと思うのです。

体罰事件があって、天声人語ではイギリスのロックの言葉を引いて(この思想家はどうも色々問題がある人みたいですね)そのころからのものとしていましたけど、フロイスの報告書の通りヨーロッパ(と括ってしまいますが)では体罰が以前から行われており、それはやはり不完全な大人としての子供観が影響しているでしょう。

イギリスの教育は日本に大きな影響を与えてはいますが、日本の教育風土を論じる際はやはり第一に日本の歴史から題材拾うべきでしょう。
即ちその方面のまとまった研究である「体罰の社会史」を参照して、体罰の無い教育こそ古来の日本の教育の特質であったことを伝えるべきでしょう。その事を知らない自己認識のゆがみが体罰がなくなら無いことに大きく影響していると思うからです。

体罰は私に言わせると悪しきハイカラ趣味に他ならないのです。それは廃仏毀釈の延長線上にあるものであるといえるでしょう。

しかし橋下は体罰容認派なんですが、テレビではそのようなことを報道するのはほとんどみたことが無く(TBSの土曜日の午後6時代のニュースで軽く触れたのを一度みました。月曜日絵のモーニングバードでも夜回り先生が話題にしていました。夜回り先生は戦前は体罰は無かった、先生への尊敬があって生徒がいうこと聞いたからだ、といっていましたけど、それはそれとして戦前より前からの連続を重視するべきだと思います)、かなしんでいる(かのような)映像ばかり流します。無理矢理スキャンダルを作って追い詰めた鳩山・鉢呂といった人達に対する報道との違いは歴然で、石原の報道と良い、とても偏っていると思います。

メディアは横並びのいじめはしても批判はしないのではないか、という疑問すら出てくると思います。

その橋下は体育科の入試取りやめを発表したそうですけど、そこを目指して計画を練っていた学生がいるはずで、有権者に受けると思ってやっているならやめてもらいたいと思います。
こういった体罰が起こる土壌そのものを改良し、実効のある政策を打つ事で支持を獲得して欲しいのですが、現代のメディア・候補・国民の状態では難しいということでしょうか。

歴史的にみていくと「クーベルタンその人は(中略)小学校における軍事教練にかわる体育の充実を、はやくから訴えていた」(世紀末とベル・エポックの文化 (世界史リブレット) 福井 憲彦 (著) 59ページ)らしく、欧米の一部がこういった体育観から抜け出そうとしている中で、日本だけがいつまでも19世紀的なものを踏襲してこういった要素を濃くしていると思います。

地域主体の、個人の意欲を中心に据えた、体育政策に移行していくべきだと思うのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました