たばこと塩の博物館 館蔵浮世絵に見る さくらいろいろ その1

#その他芸術、アート

NHK杯は渡辺竜王の優勝が決まりましたけど、準決勝の郷田対羽生戦のあの将棋が逆転するというのが信じ難いです。
7冠を取っていく途上でも、相手がとんでもないミスをする場面が何回かありましたけど、それを思い出させますよね。

最後は大差にもみえましたが、8六銀を逃すと危ないというのも、熱戦だったと思います。

決勝戦は6五歩でどうも差がついている、というのが繊細な良い勝負だったと思います。後手の動きが変わっていたので、先手も変わった手が成立したということでしょうか。

藤井九段の解説もネタが豊富で、渡辺竜王は、棋風じゃない、といって人の言った手を却下するそうですけど、それで手を削っていって、トップ棋士になれる、というのが、将棋は広いというか、文系の将棋の真髄ですよね。

「野獣の怒り」という新著の宣伝のようですが、週刊大衆のボブ・サップの格闘界のやくざとの繋がりを指摘する告発記事も、読んでいて重要な感じがします。
どこまで何が本当かはさておいて(ほとんど本当だと思いますが)、告発をするというのは勇気と良心のあることだと思います。

谷川の無能ぶりが良く分かります。石井館長はそれなりに良かったという見解なんですね。

大山倍達が最初、自らの極真空手を極道空手と名づけようとして、人に注意されて、道を極めるということなのにやくざのことだというのはおかしなことだ、といったという話しがありますが、本当に極道になってしまったのでは話になりません。いつの時代から付き合いがあるかはさておき。

そもそも言いたいのですが、やくざがこんなにいるのはおかしい。

良く松岡正剛さんですとか、最近はまともなやくざがいなくなった、と嘆かれていますけど、それはある意味当然で、昔の人はぎりぎり食えるか食えないかという所でやくざになっていたんですよね。
なのでかたぎの世界の澄んだところで通用するような人もやくざになっていた。それにそういう人が活躍できるだけのやくざの利点というか、地域でのプラスの役割が残っていたんですよね。

近代以降そういった役割は減衰をつづけて現代ではゼロといって良いと思います。行政のサービスが行き届いて必要がない。
さらにはほかに食べる手立ても圧倒的に増えて、自ら志願した、本当の意味でのやくざな人しか今のやくざ組織にはいないんだと思うんです。

そういう人が世の中にたくさんいるのはおかしい。やくざというのは昔からいて、いるのは当たり前だとなんとなく思っている人が警察内部も含めて多いのではないかと思うのですけど、そういう生粋のやくざ物がこれだけいて社会に食い込んでいる世の中というのは、異常だと思います。

そしてこれは新自由主義の延長線上にある社会の拝金主義的なあり方と密接にかかわっていると思います。このまえの6次下請けのピンはねの構造ですとか、本当にやくざと呼ばれないだけでやくざです。やくざと堅気の中間領域のような人達の数がものすごく多いのも、最近の特徴です。

エコノミックアニマルの意味には諸説ありますが、お金のないエコノミックアニマルに今の日本はなっていると思います。お金の前でのモラルの低下が著しい。低下というより崩壊していますが。
その延長線上に、やくざ化というのが存在するのだと思います。

サップに戻ると、歩き方で曙が一流アスリートではないのがわかった、などという記述もありましたが、武術的。確かに曙の歩き方は酷いですし、アメフトのレヴェルの高い選手を見慣れていたボブサップなら、そうも思うでしょう。アメフトとの歩法の違いというのもあるでしょうけど。

相撲界自体のレヴェルが低いのではないかと匂わせる様なことも言っていましたね。

引退した格闘家のケアもしている、というのも立派な話です。最盛期のころも、やはりみんなどこかに優しさを感じてファンになっていた人が多かったということはあると思います。サップはぼんぼんの知性派で知られていましたけど、これからもどんどん暗部をえぐって、ケアを続けて、格闘界をエレガントな場にしていって欲しいと思います。

3月18日の午後6時5分ごろのスーパーJチャンネルでは、南海トラフ地震が起きた時の被害を見積もったというニュースが流れましたが、原発にアクシデントが起きる事態は想定されていないとのこと。

読売出身の大谷昭宏コメンテーターはその被害金額の想定を記したボードを指して、これでマックス、といって、実際は~という話に移っていましたけど、神経を疑うコメント。彼の中では安全神話は生き続けているのでしょう。

合理的な思考、ではなくて、意固地な意地ですよね。枯れ木的な考えなのではないでしょうか。

そしてこのコメンテーターを使い続けているこの番組自体も、その発言に対する責任を免れ得ないのです。

同日の報ステでも三浦俊章コメンテーターがあくまで最悪の想定である、ということをいって、そのまま次のニュースへ。

原発の被害想定を入れていない時点で、科学的に中立という意味で市民に寄り添ったデーターではありません。地震学者の今からの言い訳というのがひとつと、本質は堤防を始めとした公共事業への布石でしょう。この前の気仙沼の畠山さんの懸念が着々と現実化してきているということだと思います。

何をいうにも、なにもやるにも利権だけが眼中に。右を向いていも左を向いても良心が感じられない、というのが今の日本社会の大きな特徴だと思います。

次の日のモーニングバードの宮田佳代子さんは流石に触れていました。

計画停電が本当に必要だったのかの検証もなくまた計画停電が行われるとの試算を出しているみたいですが、再エネを地域地域で作っていれば停電リスクは減らせるので、こちらを推進するべきといえます。

3月18日頃には脱原発界隈では堀潤さんがNHKを辞めるというニュースが駆け巡りましたけど、やはり内部の人というのは発言に独特の重みがありますので、いらっしゃった方が良いのではないかとも思うのですけど、飼い殺しにされそうなのかも知れず、そうであれば人生は有意義に使われたいというのは良く分かります。なにか面白いことをされるようだったら良いですよね。

本当の意味で「面白い」っていうのはとても大切ですよね。それにはある意味の純粋さが必要ですが、そういうものももたれている方なのではないでしょうか。すぐに熟してしまう人のようなのが少し心配ですが、、、、。

1月8日の朝日新聞夕刊の「古井由吉インタヴュー」では文明であるとか、言語について大きく語っているのですが、原発をやらないと貧乏になる、もしくはすぐれた対案はないという前提で話しているので、恐らくインタヴューの大半がほとんど意味の無いものに。

どんな方なのかは知らないですけど、新聞がインタヴューをしてみたくなる位の人のはずで、それにして正しい認識を得ることの難しさですとか、文理を兼ねる難しさというか、学問というのは堅牢な足元を用意しないと歴史に耐えられないのだな、という思いを強く持ちます。

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