田畑暁生氏の「白川静ブームとその問題点」について その1

白川静さんについては現在、日本の東洋学界で広く受け入れられていると言い難い状況のようで、ネットで検索すると田畑暁生さんという学者の方が批判されたものがあったので、私の紹介とバランスを取る意味でも必要ですし、学会の多くの人達の立場をかなり代弁しているように感じますのでここに張っておきます。(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81004269.pdf

これを読んで私が思うのは、まずは白川静さんの字源説が政治的に保守的な層のよりどころになっているということで、それを藤堂明保の話を予言的に扱って、白川静本人の学問の性質として批判されているように思うのですが、これはどうか。

私は白川静さんの文章を読んで、右よりであったり、保守的であったりと感じたことはありません。

白川静さんのなさっている学問は、ご本人が「私はわが国の神話に対する私自身の関心をあらわすために、この書をかいた。(中略)私の漢字の起源についての研究は、もとよりそのことをも顧慮に加えて試みたものである。」(中国の神話 (中公文庫BIBLIO) 白川 静 (著) 336ページ)と書かれているように古代中国と古代日本との関係を明らかにしながら、東洋ならび日本の古代を探るということです。

なので、どうしても分野上、古代の国家神話に拠り所を求める右翼・保守に近接しやすい位地にいるわけですが、ご本人は、「私が何のために中国の古典をよみ、「万葉」を読み、文字を論じ、漢字制限を批判し、文字文化の回復を論じてきたのか、人々は概ね私の保守性によるものとされていたようである。」(回思九十年 83ページ)と慨嘆する形で否定しています。

また「皇室は遥かなる東洋の英知」(桂東雑記Ⅳ 213ページ)という、いかにもそれっぽい文章がありますが、ちゃんと読むと天皇家の文化的な歴史についてのべられていて、天皇の政治的な面について触れられることはなく、変に称えるであるということもありません。

また文中(219ページ)天皇が現人神として扱われたのは天智・天武期だけであった、とありますが、この頃と戦前・戦中だけが特殊であった、というのが白川静さんの論です。それはそのような天皇の権威について、変則的なものであることをほのめかすもので、現代において戦前・戦中的なものを天皇に求める人達や、古典を利用してそういったものを復活させようとしている人達を牽制するものであるといえます。

この論文には社会党を中心としたの革新勢力の退潮と保守の台頭を白川静の学問が社会に受け入れられる理由であったと書かれていますが、白川静さん自身が政治的な立場を表明した文章は読んだことがありませんが、保守的な政治の流れと結びつけるのは疑問です。

そして小泉政権には極めて批判的であり、その靖国外交については「子どもの喧嘩」「醜態」(続文字講話 196ページ)と酷評しています。
ほかにも9・11の2ヶ月前に行われた講演でですが「外に兵を出すというようなことは、わが国はしてはならんことであると私は思う。」(文字講話Ⅱ 248ページ)といった記述があります。これだけみてもご本人の思想はむしろリベラルなものであったことが了解されるでしょう。蛇足ですが「石油の利権を独占しようなどという考えで戦争をやるなど、以ての外ですね。」(文字講話Ⅳ 83ページ)など、90歳を超えてなお、時事への分析も正確です。

それを裏付けるかのように、主に松岡正剛さんや内田樹さんといった著名人の方々に支持されることによって読者数を増やしましたが、彼らの思想も保守であるとはいえません。むしろリベラルに分類されるのではないでしょうか。

保守的なエピゴーネンの存在ももしかしたらいるのかもしれませんが(具体的には存じ上げない)、本流としてはリベラルの人脈でその学問が広がったといえるのではないでしょうか。

また、歴史的な流れという面で分析するなら、この二人が鳩山政権と近い関係だった、もしくは著書を通じて影響力を持っていたことが指摘できるでしょう。そして鳩山政権は理念としてアジア重視を掲げていました。

それにしても、この二人に白川静さん本人を加えてみてみると、ローカリズムと括られる思想傾向を多く持ち合わせているのが特徴のように思います。そしてローカリズムはナショナリズムと混同されやすいものです。それは白川静さんの批判者が陥りやすい陥穽でもあって、当論文の当該部分の本質ではないかと思います。

また「革新勢力は、言語表記についても「合理化」を求め、「漢字制限」と結びつきやすい。」と論文中にありますが、白川静さんが漢字制限を批判されていた時に、制限をしている当の国の政権はほぼ常に自民党が握っていました。実際に起こっていたことは真逆だったといえます。

もっといえば、革新と目される勢力にも保守と目される勢力にも、漢字を制限した方が良いと思う人もいればそうではないと思っている人もいて、入り乱れているのが実情でしょう。

白川静さんは著書中で「ノモス」ということばを使われていますけど、理不尽な漢字制限こそが白川静さんの相手であって、表面的な思想の分類は関係なかった、というと綺麗になってしまいますけど、そういう感じだったと思います。

実際に白川静さんが党派性からは遠い人だったのは事実だと思います。そのような表面的な分類だけを追って行くと本質を見逃してしまうタイプの一人であるといえるでしょう。

日本人として中国に学問で伍したいという気持ちが込められているのはたしかですが、日本人の学者としてそのような気持ちを持つのは当然のことであって、むしろそのような気概すらなくしてしまうということは、個人・国の健全な気概・ナショナリズムの喪失であるといえます。

ということで、私としましては、白川静さんの学問を保守的な政治的な流れと関連付けて語る説は牽強付会を免れないと思うのです。

近接している領域を扱っていながらも、むしろかなり綺麗に切れている。これが白川静さんの非常に信頼できるところで、主観的にいうなら、格好良い所だと思います。

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