田畑暁生氏の「白川静ブームとその問題点」について その2

また文中オカルトブームと結びつける記述がありますが、白川静さんは古代人の呪的な世界観について多く語られていますが、呪術自体は否定しています。「ただ神道は呪術と決別した。これは明治になってからね。呪術と決別したということは、私は非常に賢明なことであったと思います。」(文字講話Ⅱ 52ページ)

著書の中では「呪歌の伝統は「万葉集」の大きな要素です。そこには日本人の心の基盤となってる、古来の祈りの形が記録されています」(桂東雑記Ⅴ 132ページ)と念としての呪を古代人の祈りと呼び変えて理解を促しています。

人の純粋な信仰の形は祈り以上に念ずることである、と「東洋のこころ」(中村元著 237ページ)にありますが、白川静さんが著書の中で賛嘆される呪の形はこのようなものであると、著書を読むと理解できます。人の純粋な精神性の発露としての呪というものがあるということです。

呪術と呪は重なる部分があるようにみえながらもあくまで違うものであって、ここをごっちゃにしてしまうと古代人の世界観の積極的な面は理解できないでしょう。歴史から澄んだ部分を取り出すことはできません。

ここが本当に綺麗に認識としてすっぱり切れているのが白川静さんの優れているところです。

孔子を釈迦やキリストと比して光背を背負わなかったと称え、仏教には冷淡で(禅宗は評価していますが)、むしろ宗教臭が極めて薄いのが白川静さんの東洋学者としての特徴なのです。

また加えて書けば、オカルト事件や地域紛争が起きると、宗教自体に疑問を投げかける派(グローバリズムと結びついていることが多い)がいる一方で、逆に伝統的な宗教であったり、身体論に対する知識・実践の不足がそういった歪な行動につながっていると指摘する人がいます(ローカリズムと結びついていることが多い、といえるのかもしれない)。私は後者の立場を取るものです。

たとえば齋藤孝さんなどはむしろそういったものに対する知識・体験の不足が未熟で歪なものに引っかかってしまう原因になっていると述べられています。イスラム圏でも、正統イスラームと過激派を分析する際に同じようなことが言われているようです。

なので、ここは注意深くすっぱりと分けて認識しなければならないというのが重要であって、ここを一緒くたにして切り捨ててしまうのは、日本社会の脆弱化につながり、新たな火種を用意するものであろうと思います。

白川静さんの場合は宗教というより民俗ですが、そういったものを踏まえることによって、かえって、未熟な呪術的なものに対する免疫は強まるでしょう。

またそういったものの背後にあるものが、澄んだ祈りのようなものなのか、そうではないのか、ということにも感覚が働くようになるだろうと思います。

権力とそれが神権的なものを纏おうとする動きは現代日本も含めて近現代を理解するうえで非常に重要ですが、そういったものの根本的な原理のようなものも、深く理解できるようにもなるだろうと思います。

民俗学的な誤りを指摘するならありえますが、この論文のような認識は、むしろ民俗学的な世界の否定につながるのではないでしょうか。

付け足して言えば、白川静さんの字説はおしなべて東洋学会からは評判が悪いのですが、「民俗学への招待 」((ちくま新書 )宮田 登 (著))の97ページで「毒」の字が字統から引かれるなど、民俗学会からは評判が良いように思います。資料が少ないので即断できませんが、少なくともこの水準の学者がみて、納得できるものを持っているといって良いでしょう。

文字学の解釈が今後、専門家にどのような評価を受けていくのか、というのと別にして、その描き出す民俗的な世界には特段無理が無い、といえるのではないか、と感じています。

世界の色々な民族の歴史を調べてみても、あの時代の中国があのような民俗的な状況にあったであろうということには、肯けるものがあります。

他にも谷川健一さんと親しいですし、東洋学会でも加地伸行さんは比較的親しいようで、どこまで民俗学会に承認を受けているのかは詳しく調べないと分かりませんが、白川静さんの批判は東洋学会からが多いですけど、民俗学的な立場からの批判がもっとされるべきだと思います。

白川静さんの学問が正しいか否かはともかくとして、もし正しければ、こういった東洋学会の反応はアレルギー反応、ということもできるでしょう。現に偏見的なものは根強いといえます。何故こういった反応が起きるのか。

それは例えば「易の話 」((講談社学術文庫) (金谷 治 (著) )などに、西洋の合理主義と孔子の合理主義を比べる箇所がありますが、金谷治さんはともかくとして、日本の東洋学会が、西洋の合理主義を基準にして、中国の古代にその基準に合う合理主義を見つけ出して称揚することに力を注いできたことと関係があると思います。

白川静さんが本当に西洋が合理主義なのか、という事を含めて問題にされていて、私も白川さんが挙げていない資料も含めてそういったことには非常に疑問を持っているのですが、その態度には、そのような問題がひとつあります。

あとはやはり、中国の古代そのものをそのまま理解しそこに特有の価値をみつける、という作業を日本の東洋学会は怠ってきたのではないか。それが白川静さんの学問に対する無理解につながっていると思いますし、白川静さんの学問はそういった中国への本質的な理解への道を切り開くものであるだろうと思います。

最近中野三敏さんが、江戸時代は近代の文脈に合う所だけ取り上げられてきた、と問題提起されていますが、これは日本のとても多くの学会に同じようにみられる問題です。

司馬遼太郎さんの日本の歴史に対する態度と近似する姿勢をとっていると思うのです。

以上、エピゴーネン批判について述べているにしても、論文中にかれらの認識が誤解によっていることを示すべきです。

キリストに十字軍の蛮行の責任を求める、というと宗教的な例えになってしまいますけど、本人の学問と(そういった動きがあるとしたら)それはかなり離れているのではないでしょうか。アダム・スミスと新自由主義よりずっと遠いと思います。

字統でのサイの表現については、確かに私も字統を読んだ時に、意外と「口へん」は「くち」のままの解釈の字も多いんだな、と思った記憶があります。しかし思い返してみると、松岡正剛さんのベストセラーである「白川静 漢字の世界観 」(平凡社新書)の原著である「私のこだわり人物伝 2008年2ー3月 白川静/色川武大 (NHK知るを楽しむ/火) 」で「サイの発見」と最初の方の見出しに掲げられていたり、「東洋文字文化研究所」のホームページに最初にサイを業績として張り出してあるのと比較をすると、私は白川静さんの一般向けの著書のほとんどに目を通しましたが、そういった文章の中で、サイの発見について語られていたり、革新的な業績であると紹介されているものは分量として少ないんですよね。

「「口」が字の左側に付く「口へん」の形声字については、当然「くち」と考えて良い、ということなのかもしれないが」と論文中に推測してあるのがご本人の意図なのではないかと思います。

私も含めて紹介者の方々、この論文中の表現で言えばエピゴーネンの方々、といえるのかもしれませんが、そういった人達の紹介の文脈に影響をされて、違和感を感じてしまった、という部分があるのではないかと思います。

また、この論文中43ページ末で、白川静と保守的な社会の流れを結び付けて語っていたかと思えば、それについての白川本人の過失として、いきなり字統でのサイの扱いを持ち出して非難するのは、文脈として成立していないと思います。

白川静さんの字源説が仮説であるというのはその通りでしょう。「衆知を集めて検証」と論文中にもありますけど、白川静さんもこのような字源の探求は本来は大人数でやるべきで、個人には荷が重いと書いていました。

そして、上で引用したように、文字学は白川静さんの学問の手段であって、そこを質すことによって、白川静さんの古代に対する認識を正す、という所を目指すのが批判の王道でしょう。
私もそういった文章を読みたいですし、白川静さんも望まれていることなのではないでしょうか。

イメージ先行の記述がみられる一方で、小文であるという制限も有りますが、そういった本格性を欠いている論文であるように思います。

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