「潘基文国連事務総長「正しい歴史認識を」日本へ注文=韓国訪問中に」(http://www.huffingtonpost.jp/2013/08/26/ban_ki_moon_n_3815216.html)もスポットニュースなどで取り上げられましたが、菅官房長官は日本の立場を理解していない、としていましたが、国連事務総長の発言としておかしいというべきでしょう。
靖国への参拝や、石原や野田の失策がなければただの著しくバランスを失した発言、ということで国連事務総長としての資質が内外から問われるような形で終わるのですが、彼らや右傾の支持者がいるせいでそのようなことにならないことが非常に残念です。
以前に「「丸山眞男」をひっぱたきたい」という記事が週刊誌に載ったことがあって、簡略化すると、戦争が起きてガラガラポンになって丸山眞男をひっぱたけるようになればよい、という31歳フリーターの文章でした。
丸山眞男の思想的な側面を批判するかのような表題で釣っておいて、中身があまりにもスカスカで、いくら売上げ至上主義の週刊誌でもこれはないだろうと思ったものですが、今思うと、今でいうネット右翼の行動原理の核心が吐露された文章だったのかもしれない、と思うようになりました。
こういう考えがあるから、無理を重ねて、右傾化しようとしているんじゃないかと思うんですよね。
でもよく考えて欲しいのは、戦争になった時に、最前線でまっさきに犠牲になったり、負担を強いられるのは、このようなことを煽っているネット右翼層自身であるということです。
またもしガラガラポンをしたいのであれば、中枢の腐敗を突いたほうが良い。安倍政権の中枢はA級戦犯から富を引き継いだり、朝鮮の人を酷使して富を築き上げたような人たちばかりです。このような認識を正しく持って、しっかりと突き上げていけば、ガラガラポンも夢ではないでしょう。
また軍部の悪辣さを直視すれば、実は彼らと官僚などの受けた教育は大して違いがないことに行き当たるでしょう。それでよいのかという疑問が生じ、私は良くないと思う。
現に原発事故を引き起こした彼ら、またその処置をした彼らの行動は、軍部よりさらに合理性や人間性を欠いているとすらいえると思います。
私がいつも書いているように、それ以外の人たちも、嘘や矛盾や欺瞞に満ちており、それを正しく指摘していくことが社会の改良に欠かせません。原発の処理は極めて拙劣で、その機能不全を露呈して止みません。
正しい事実に対する認識こそが、社会変革を成し遂げさせるのです。
また丸山眞男について書けば、私は直接著書をほとんど読んでいませんが、それでも本の中の引用やネットなどでその文章を目にすることは多く、間違いが非常に多いなという印象を持っています。
私はいろいろ新書などを読むのですが、適当に新書を取ったとして、その本の中に丸山眞男の意見に対する疑問が書かれている可能性はかなり高いと体験的に言えます。
専門家から見るとおかしなことを、いろいろな分野で適当に書いているんですよね。
今でも権威的に扱ったり、もしくはいかにも権威あるものを批判しているのだ、というような大げさな形で批判しようとする人を見かけますが、そういうのはもうやめたほうが良いと思います。
その議論は戦争責任に特徴があって、真のインテリになれなかった都市の似非インテリが悪い、真のインテリは悪くない、というようなことを言うんですよね。
そんなことはなく、当時戦争を主導した軍部はそのころの最高のインテリ層であり、誤った情報を流して世論を誘導し、大本営発表をし続けた新聞社もそうでしょう。また当時の東大生は80パーセントが戦争に賛成だったというデータがあります。
丸山眞男という人は何だったかというと、「知識人」層が自分たちに戦争責任が無いかのような、戦後もこのままで変わらなくてよいかのような錯覚をさせるための「装置」だったのだと思います。だからこその熱狂的な支持があったのだと思う。
また江戸時代を超暗黒的に書いて、そこに発するあらゆる文化にこじつけて、日本を批判するのも特徴的。こういったことは最近の研究で全く事実と異なることがわかっており、氏の著作の価値を全く失わせてしまう決定的な部分でもあるでしょう。
問題の淵源を日本の歴史・文化に擦り付けるのも百八十度間違っていて、司馬遼太郎さんは、江戸期を捨てたことが日本の不幸だったのではないでしょうか、と語っていますが、これは正しいです。
また、日本文化を悪く書く、というのはどういうことかというと、逆に言えば、外来の文化・学問への擁護といえるでしょう。
戦争の責任は日本文化にある、とすれば、やはり明治以来の「知識人」層の西洋文化・学問をただ輸入していく類の依存主義的な営みに対して、責任はない、変わらなくて良いというメッセージを送れるわけです。
またそのような自主性に欠ける学問の在り方が、福島の原発事故を引き起こしたのではないか、という話はこの前に書きました。(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/53650461.html)
丸山眞男とは日本史の中で、そのような役割を果たした人なのではないかな、というのが私の考えです。
こうやってみていくと「「丸山眞男」をひっぱたきたい」のタイトルが、誰でも良さそうだったのに、わざわざ「丸山眞男」だったことには、偶然ながら深い意味が込められていたのかもしれません。
加えて、戦後の責任追及をする責任すらカムフラージュしているのがさらに悪質です。(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/52867371.html)
丸山眞男は「永久革命」という言葉が有名で、好んで引く人が多いですけど、世の中をだんだん良くしていこう、というのは当たり前で、この言葉の中に学問的な独創性が含まれているかというと怪しいのではないかと思います。
またこの言葉には、世の中がどんどん進歩していくものだ、というマルクス史観的な偏見が入り込んでいるように思います。
最近の藤圭子さんの特集で、「ワイドスクランブル!」でなかにし礼さんが藤圭子の歌やその周辺の歌に触れて、「上を向いて歩こう」なども、安保闘争で敗れて、民主主義が後退していく中で、それでも希望を持とうというような意味で作られた、と言っていました。民主主義も後退しましたし、戦後にどんどんものが言いづらい社会になっていったのは事実だと思います。
戦後に絞ってみてもそのような退行があった。そしてそのような事実を分析する際に、この言葉はある種の錯覚を起こさせる言葉でもあったのではないかと思います。
最近も新聞に「至近距離からの傍観者」という語呂がいい表現が載っていましたが、原爆を体験したんだけど今まで語ってきませんでした、という意味でしょう。
どうもそれっぽいレトリックを生み出すのが得意で、周囲はそれに乗っかってしまっているのではないかと思います。
コメント