「カラヤン —いま、「帝王」の時代を再検証する!」(文藝別冊/KAWADE夢ムック)は発売されたころに宇野先生の部分をとりあえず立ち読みして、女性差別的な部分があったので放り投げたのですが、今日よく見ると片山さんのインタヴューなども載っており、再び立ち読み。よく読むと宇野先生の文章も、いろいろ示唆的なことが書いてあります。
宇野先生は今月号のレコ芸のHJリムの評論でも、女性差別すれすれのところでバランスを取っていますけど、影響を受けているとか、演奏会に行ったことがある、とか言い難くなるので、これと極右的な言動はやめてもらいたいと思います。
ただ、男女に個性の違いはあるのは明らかなので、もう少し慎重に書けば、そういったところを的確に書いた評論になりえる可能性の一端も含まれている文章だとはいえるでしょう。
あと、宇野先生が好きな仏教の変成男子説は初期仏教には存在せず、大乗仏教全体を見渡しても、代表する仏説とはいい難いです。
中村元さんは仏教の中で女性が重視されたことを示すものとして「勝鬘経」を特に取り上げられています。
宗教にどこかで差別が寄生してしまいそうになることはよくあることですが、そういうものの一部で、現代人が過去の遺産として強調する部分では無いと考えます。
前置きは長くなりましたけど、R.シュトラウスの「4つの最後の歌」やブラームスの交響曲第一番のカラヤンの演奏の評論などやはり巧みで、この文章を読んで聴いてみたいと思わない人はあまりいないでしょう。
ぶっとぶかとおもった、とか雰囲気が良く出ています。
フルトヴェングラーに危機感を持たせることで彼が指揮台に立つことが増えた、ファンは感謝するべきだ、などと、アンチカラヤンらしくかなり皮肉な内容。
カラヤンは曲ではなく、演奏を聞かせていた、と書かれている部分も非常に示唆的。トスカニーニのスタイルをカラヤンは採用したわけですが、楽譜に忠実というのは、楽譜という外面に合わせることで、楽譜の内面を読み込んで曲を再現する、というやり方から解放されるんですよね。
つまり外面を忠実にすることで、曲の内面を自由に自分で演奏することできるわけで、トスカニーニやカラヤンの演奏は、曲の本質から離れているという意味で主観的な演奏だったといえるでしょう。
そうするとより指揮者の個性が前面に出てくるわけで、指揮芸術の時代を開いた一つの流儀だったといえます。
またカラヤンの演奏会の客層にも触れていて、最初は普通だったが、だんだんタキシードを着た人などが増えてきたとのこと。そういう人は、私はたぶん今まで見たことがないですね。
従来の音楽ファンから言うと、相容れないものを感じる人も多かったのでしょう。やはり、ざっくりいうと、そういう人たちは音楽を聴きに来ていたとは言えないのでは・・・・。
片山さんのカラヤン評のまとまったものを読むのは初めて。アンチカラヤンだったんですね。なんだ、私と同じじゃないですか(笑)
ただ、あまりにも王道だったら避けたということで、私は肌が合わないなと思ってなんとなく聴いていないので動機は微妙に違うといえるでしょう。
カラヤンしか振っていないマイナーな曲の録音が結構あったので聴くようになったということで、全く聴いたことのない曲名がどんどん出てくる、流石片山さんと思わせる文章です。
カラヤンは意外と現代音楽を振っている、ということでそれは配慮であっただろうとのこと。
将来現代音楽ばかりが聴かれるようになると思っていた人が戦後間もなくは結構いたらしく、吉田秀和などその一人だ、と書いてありましたけど、そういう人だったんですね。グレン・グールドも同じような考えでしたけど、そういう人は珍しくなかったということなのでしょう。
時代が全くかぶっているのに、ほとんどカラヤンを実演で聴いていない二人が巻頭の随筆を務める、という異色のカラヤン本で、日本におけるカラヤン需要の複雑性を示すものといえるでしょう。そういう二人の評論をこれまたカラヤンをあまり聴いていない私が読むわけですが。
カラヤンの演奏評も見事なもの。
普通は壮絶な演奏だと乱れ、スマートな演奏だともの足りないが、それが両立している。さながら重戦車のようである、とのこと。
それはカラヤン自身の個性であるとともに、横の宇野先生の文章には、ベートーヴェンの交響曲第4番でコントラバスを十本に増強していた。横に座っていた吉田秀和氏は怒ったように立ち上がった。と書かれていましたけど、そのような編成上の工夫もあるのでしょう。
音を引きずるように演奏するのはカラヤンが始めた、と前に宇野先生が書いていましたけど、意外と遅い部分も多いんですよね。カラヤンはすごく前進力の強い指揮者で、それでもスマートに、速く聴こえるような個性を持っていたんだと思います。
音の一つ一つがはっきりしている、というのも一流演奏家の特徴ですよね。
高度資本主義とカラヤンの活躍を関連付けて語る部分も流石片山さん。ただし私は、社会心理学的なアクセサリー
という部分や、あとは、良く言及されますが、カラヤンの死後間もなく終結した「東西冷戦」が、カラヤンの芸術と時代の関連で言えば非常に重要だと思います。
あの孤立した、東側の腹中のベルリンで、文化的な力で東側世界を圧伏する必要があったと思うんですよね。それにはカラヤンの磨き抜かれた、ゴージャスで、重戦車のような、ナルシスティックに自分たちの文化を謳い上げる、芸風がどうしても必要だったのだと思います。
片山さんのインタヴュー中でも触れられていますが、技術が進歩するたびにカラヤンは何度も同じ曲を録り直しています。時代時代に最新テクノロジーを駆使して自らを、音楽を伝え続けました。この前の天野祐吉さんのカラヤン番組で言及されたり、よく言われることで、ソニーの大賀典雄社長との商談中に倒れたカラヤンを評して、伝道中に行き倒れた伝道師のようだ、という人がいます。それは一つの側面として、私はフルトヴェングラーが時代に合わない自分を自覚し、半ば自殺するように死んだのと同じく、カラヤンも自らの歴史的使命を終えたときに、倒れたのだと思います。
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