太田記念美術館 「笑う浮世絵-戯画と国芳一門」前期 その50

#その他芸術、アート

月曜日の大竹まことさんのラジオではネオニコチノイドという農薬でミツバチが大量死して何分の一かになってしまっているというお話。
アメリカやEUでは規制が始まったが日本の動きは鈍い。まずは規制をして様子を見るのが筋絵はないだろうか。大半を生産しているのは住友化学である、ということ。

経団連の米倉弘昌会長が代表取締役を務める企業である、というのはいいませんでしたね。さすがにここはまずいところか。一番のわかりやすい悪いところなのですが。

その後ろのコーナーは森永卓郎さんを招いて猪瀬事件について。5000万貰ったら、、、とおそらく涎を垂らしながら語り、「今までで一番楽しそう」と大竹さんが指摘。

ただ、森永さんの資産から言えば、5000万円はおそらくはした金であって、茶番であるといえるでしょう。

「裏社会をそれだけ知っている人が引っ掛かるわけないでしょう」と阿川さんがいっていましたけど、そっち系に精通している人が、俺がやるはずがないじゃないか、と開き直るのとそれでは変わらないと思います。

「味方するわけじゃないけど」といっていましたけど、もしかして会ったことがあって、情が移ってしまっているのですかね。

続いての荒川強啓さんのラジオでは、他人事のようないたってぬるい扱い。小沢のときはものすごく、悪の権化のように扱っていたのですけどね。強啓さんもそうですけど、小沢の裁判について、すべての大手メディアはまったく総括をしていません。あれだけやっておいて、警察からのリーク情報を流して犯人扱いし、政治生命を断っておきながら、何の総括もしないのでしょうか。

小沢を無理やり捕まえようとしたので、ものすごく汚職の基準が下がってしまい、それが今回微妙に影響しているという話も。

続いてはCO2の削減基準を改めたということ。削減には木がいるので、そのことで農林水産省が予算を取って、林道を造ろうとしているとのこと。この期に及んで道路を造りたいというのは、国のためではなくて、もちろん特定の団体にお金を流したいからです。

○ズ人間という表現以外、見当たらないといえるでしょう。

前の記事で軍部と官僚の話をしましたけど、以下はその補足。

結局、記号的なパターンはいくらか習得したんですけど、地頭が悪い状態であるといえます。

どうすれば地頭が良くなるかというと、それは身体性と深くかかわっています。つまり子供のころから外で遊んだり、いろいろな経験を積んでいく中ではぐくまれるものであって、そういうものを通過した人を本当は、国の中枢に配置しなければならないんですけど、それができていない。

また、そういった精神性を社会の中ではぐくんでいくには、良質な文化や、東洋哲学などが、非常に有効なのですが、そういった部分も衰えきってしまっているということですね。

結局、バランスの良い人間を育てなければならないんですが、それが出来ていないということになります。重要であって、単純でシンプルな話です。

余談ですけど、このまえAERAだか何かを読んでいたら、海外経験のある人の投書が載っていて、日本人は知識と智慧を区別できていない、と書かれていてびっくり。両方とも日本語であって、本来古来日本人はこの二つをしっかりと峻別してきたんですね。

たとえば「「言志録」 (講談社学術文庫) 佐藤 一斎 (著)」には、知識は横で智慧は縦である、とはっきり峻別されています。ほかの近世以前の本を読んでも、ここは厳しく分けて考えているものが非常に多いです。

「河鍋暁斎戯画集 (岩波文庫)」など、明治に入ってからの大学の学者を諷刺するものに、知識はあるようだけど、智慧がなっていない、という批判がありました。しばらくすると時流に消されてしまったようですが。

現代の一般の人は大学教授とかになると両方兼ね備えているものだとなんとなく思ってしまっているのではないですかね。

こういった部分が退化してしまって、この二つがごっちゃになってしまっている、というのも、日本社会の退化の大きな原因だといえます。

かといって、今度導入されるという話の人柄重視入試でよくなるとは思えない。選抜する側がまったく無私で、人を観る眼が素晴らしければ良い制度になるでしょうけど、そのようになるとは全く思えません。コネや血縁、えこひいきの部分を増やすだけでしょう。実際政府の考えをみているとそれが狙いではないかと思えます。

ずば抜けて記号操作が得意な人は、それはそれで伸ばして、注意深く観つつも立派な学者になってもらって、あとはある程度の基礎的な力があったら、大体社会的に等しく扱ったらどうか。大学の後の社会において、むしろ工夫すべきのような気がします。

例えば司法試験は選抜試験なのか、資格試験なのか、という議論がありますが、司法試験だけではなく、大学・公務員試験なども選抜試験的だったと思うんですよね。でも結局それで失敗しているのだといえます。それを資格試験的にみるような社会・制度にしたらどうか。

結局社会の基本の部分で、ひとが智慧というものを重視していかない限り、根本的には変わらないようにも思います。

以前に飯田哲也さんが金子勝さんを祝島の反原発運動に招いて、市民の前で話している映像がISEPで配信されていたのを観ました。お酒が入るような席で場内は終始和やかだったんですが、一瞬だけ、金子さんが話したことに対して場内の反応が薄かった、というか白けた場面があったのですが、それは安倍首相について、四則演算もろくにできない云々、と馬鹿にした場面でした。

つまり学校の教科で頭の良さを計っているわけですが、それで把握できる人間の頭の良さというのは極めて限られています。またそのように局限すると、大切なことを見落としてまずい状況になるのではないかというのは、上に書いた通りです。

またこれでは反原発運動をしている自分たちより、原発を主導している役人の方が頭が良いのではないかということになってしまいます。金子さんがこの中で一番偉いということにもなりかねないでしょう。そういう考えで、こういった地方の人が、国に反発して、主体的に振る舞えるかというと疑問です。

金子さんが主張するような地域主権の分散型ネットワークを構築するにしても、四則演算が得意な中央の役人に任せておいた方が、良いようになるのではという考えにつながりかねません。

知識と智慧についてこれまで考えてきましたが、これは地方分権や民主主義とも表裏一体といって良い関係を持つ重大なことだと思うのです。

つまり、智慧というものを重要視する社会と、地方分権とは表裏一体であるということです。実際欧米のそういったものが成功している地方には、そういうバランス、傾向があるのではないでしょうか。

そういう面では、欧州でそういうものをみてきて経験を積んできた飯田哲也さんが文化力を重視するのは(やや、わたし好みの伝統的な線からは外れますが)、当然の流れなのかなと思います。

(ただ付け加えて飯田哲也さんについて言えば、原発に賛成か反対かで、人を峻別しすぎだと思います。政治に関係するのであれば、総合的にみていくのは当然でしょう。賛成でも話せる人はいるかもしれませんし、反対でも取り込んではいけない人や勢力があるはずです。)

地方分権とは、人の限りない可能性を信じることだ、というのが私の結論です。

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