東京都美術館 【特別展】ルーヴル美術館展地中海 四千年のものがたり その19

#その他芸術、アート

「亀井静香氏も徳洲会から2000万円受け取っていた」(http://www.huffingtonpost.jp/2013/12/16/shizuka-kamei-tokushukai_n_4455969.html)はわかりやすく馬脚を現したな、という感じ。支持者は目を背けるべきではありません。
小沢は期ずれだけだったのに、という視点が当然です。しかし検察は同じようには動かないのでしょう、そういう人たちですからね。

「虚偽表示 3社に再発防止命令」(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131219/k10013967471000.html)には「誤解を与えた」とありますが、何が誤解を与えたというのか。「「地鳥」とメニューには書いてあるけど、ここは嘘をつく旅館なのでしっかり裏を読んで地鶏ではないと受け取らなくてはいけないんだな」という意味でしょうか。まったく意味が通っておらず、風評被害という言葉の言い分と同等です。

一昨日の報ステの特集では「キャピタルホテル1000」という陸前高田のホテルの復興を特集。確か千昌夫は陸前高田出身だったはず、とおもって調べてみるとやっぱり関係があるみたいですね。

他業種からその総支配人に抜擢された人首さんを軸にした特集。人首(ひとかべ)さんというのは珍しい苗字ですよね。どうやって「かべ」と読むのでしょうか。白川説の「京」の字源を思い浮かべたのですが、そういう意味はないですよね・・・?(恐らく「こうべ」がなまったものなのでしょう)

しかし、このホテルはもう一回津波が来ても大丈夫なんですかね。

ワイドショーでは安倍がプロンプターを使い始めたので、プロンプターと政権の寿命、ということについてやっていましたが、使い始めると長くはもたないとのこと。それはそれとして、棒読みが問題であって、焦点はそこではないだろう。

安倍政権になってから、記者会見のフリーへの公開が形骸化している、という指摘があります。本来の中立な報道機関であればそのことを報道するのは当たり前です。

火曜日のモーニングバードでは外国人観光客に人気の町として谷中を特集。私もこの前行ったんですけど、有名な店、ということで焼き鳥を頼むと、山積みになっていて完全に冷えているは、今川焼風の食べ物を頼むと、ほとんどクリームが入っていないはで、人気にあぐらをかいて、完全に一見さんを騙しに来ているな、という印象。商店街全体で「おもてなしの心」を一貫させない限り、一過性に終わるでしょうね。

流行語大賞で安倍がアメリカで演説しているシーンが何度も流されますが、あほな引用をして嘲笑された場面なのだ、ということをメディアは常識として伝える義務があります。誤って認識したままでは、日本全体が笑われかねないといえるでしょう。

宝くじのCMが再びたくさん流れ始めましたけど、そのお金の流れについて報道をしたものはやはり一つもみかけません。問題がないとういうわけではないでしょうし、万が一全く問題がなかったとして、それを知らせるだけでも意義のある取材といえるでしょう。

「テレビジャーナリズム」というものがあるかないか、ということで田原総一郎さんが論争していたのを前に見かけましたが、これをやらないこと一つだけを取ってみても、テレビジャーナリズムは本質的に存在しないと断言できます。

パチンコ・消費者金融などにも恒常的に同じ問題が存在します。

金曜日の大竹まことさんのラジオのゲストは大江健三郎さん。

福島の農家の方の「田を作る」という実感の部分に共感され、被害に涙したというのが、さすがに文学者というべきでしょう。

室井さんが言うには、被曝という言葉を使っちゃいけない、使えない言葉があるのがショックだった。とのこと。

それに対して大江さんは、原発の時に、日本全体で内部被曝という言葉を使わなかった。政府や官僚は内部被曝を認めなかった、内部被曝ということを日本人が言い始めたのは福島以降。と応えます。

「ヒロシマ・ノート」を書いた人らしい視点と言えます。

ただ、原発事故はより半減期の長い核種が多いらしく(原発のコスト 12ページ)こういったことを踏まえながら、双方の被害を過大にも過小にも見積もることなく評価することが必要でしょう。もちろん放射能の被害は完全に証明されてからでは遅い類のものであり、金銭的に置き換えられない被害の部分にも十二分の賠償がなされるべきです。賠償は多すぎるのではないかというくらいの量が払われてしかるべきだといえます。

私小説をやるまい。ということで書いていたとのことですが、これは当時は私小説は日本独特のものという伝説が生きていて、それを越えようとしていたということでしょうか。

ここで息子さんとの関わりが出てきて、息子さんや妹さんとの関わりの中で、大江さんの中で再び一人称というものが重要になってきた、というお話。

私は大江健三郎さんが息子さんと出ているテレビなどを随分昔に観たことがあるのですが、その中で、何か特技がないと人として価値がないかのような発言や雰囲気が感じられたんですよね。そういう考えはどうなんだろう、と思って観ていた人ではあります。

しかし実際に脱原発の運動を起こしていかなければならない、ということになると、かつての市民運動の時のように、引っ張る力があります。原子力ムラの力学からは自由です。

「井上ひさしさんも死んだ」という言葉も印象的。井上さんについても私はいろいろ書きましたし、実際に問題も多い人だと思うんですけど、結局は、今生きていれば、脱原発の旗を大江健三郎さんの横で振っていたでしょうね。そう思えば、悔やまれます。しかし、新しい時代の旗手が当たるべきだという、天の采配でもあるのでしょうか。

こうやってみていくと、モンターシステムが成立した時期がありますから、世代的にも、そのしがらみの中にいる世代とそうではない世代があるのかもしれませんね。

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