カルロス・クライバー: 孤高不滅の指揮者

#音楽レビュー

「カルロス・クライバー: 孤高不滅の指揮者」((KAWADE夢ムック 文藝別冊) 河出書房新社 (編集))は毎度の片山さんの巻頭インタヴュー付。もはや、お客が呼べる有名評論家で仕事盛りの人間は、片山さん以外存在しないくらいの状態なんでしょう。

片山さんの特徴は言わずもがな、そのオタク性。本業は日本思想史なんですけど、一方で、好きなを音楽を好きなだけ聴いていたという。これがなかなかいなんですよね。めちゃくちゃお金がかかるうえに、演奏や作曲と違って、収入的なリターンが(普通は)望めないんですよね。片山さんの実家が超お金持ちではないかと一部でささやかれる原因になっています(ご本人が言うには、普通の家だとのこと)。

繰り返しですが、そういう人はいそうで、いない。外の演奏なり学者業がほかにあって、必要に応じて音楽を聴く、という人はいますが。ただそういう人たちの文章は、楽しみが中心にないので、やっぱり人を惹きつけないんですよね。片山さんの評論は、そのある種の純粋な側面が読者を惹きつけているといえるでしょう。

クラシックの世界というのは細分化が特徴と言えます。演奏家が音楽ファンである、という率は少ない、というか実はほとんどないんですよね。子供のころから音楽をやっている人は、自分が好きで音楽を聴き始めたわけではなく、せいぜい教科書的に聴くに留まる。テクニックの練習も積まなければいけないので、音楽を聴く時間もなかなかな無い。音楽好きからみて、びっくりするくらい、演奏そのものに興味がないのではないかと思われる人がかなり多いのです。

一方で音楽が好きで聞き始めた人には、演奏の妙味に分け入って聞き分ける力があったりする人もいるのですが、演奏技術がない。この二つを備えている人は、私が知っている限り、宮本文昭さんだけですね。だから深夜のタモリ倶楽部をはじめとして、宮本さんが出てくる音楽番組は面白いものが多いと思います。

他にも、演奏家は楽器ごとに細分化されていたり、作曲や楽理系の人がいたり、演奏史や伝記などを取り扱う学者の人がいたりで、それぞれ中々ほかの分野のことを把握できていないのが現状であるといえます。

そのなかでも、今かなり減っていいて、一番重要とも言えるのか、本当に音楽を楽しんで、ただ聴く人だと思います。そしてそういった下地から出てくる、評論家(もしくは演奏家)です。

真の音楽ファン、オタクが陸続と出てくるようでないと、鑑賞文化としてのクラシックは滅びてしまう。ほとんど存亡の危機にあるといえるでしょう。

戻って、片山さんは21世紀になってからクライバーが視界に入ってきたとのことで、かなり奥手だったとのこと。興味があること以外は眼中にないのはさすがにマニアの鏡です!人に話をするために、聞かざるを得なくなった、ということで、そういうことはありますよね。卑近な例ですが、わたしもこういった文章を書くようになって、全く視界に入っていなかった本に、目を通すこと、通さざるを得ないことが多くなりました。それが良いことか悪いことかはわかりませんが。

といったわけで、本全体の中では客人のような雰囲気があります。しかし、このシリーズではそれは毎度のことともいえるでしょう。王道ばかりを出すこのシリーズに対して、片山さんは「王道」に興味がなく、常に他流試合のような緊張感があるのも面白いところです。

ご本人も、しつこくなるんだけど、と前置きして何度も語っていましたけど、父親の存在の大きさに力点を置いているのが特徴。

C・クライバーについて書かれた文章はそれなりに結構読みましたが、意外とこれを強調しているものはみかけなかった記憶があります。もしかして、伝記とかが出版されて、そういうのの中で強調されたりしているのを踏襲していたりするのですかね?

父親にコンプレックスがあって、それで楽譜を研究しまくって、父親に勝てると思った狭いレパートリーしか残らなくなったとのこと。

私の感じでは、あくまで古典的な匂いがする父親のエーリヒと比べて、無手勝流の雰囲気もするカルロスは印象が違い、別物なのでどんどん振ってもらっても良かったように思うのですが。

トスカニーニはイタリア系、フルトヴェンクラーはドイツ風、ミュンシュはラテン系(ラテンの明るさというより、この人は「個人的に少しテンションがおかしい系」の人のような気もしますが)、ショルティはハンガリー、カラヤンは独墺系、一方でクライバーは根なし草である、ということが書かれていましたけど、フルトヴェングラーとカラヤンがともにドイツ系というのは違和感があるような気も。やはり、カラヤンはギリシャ系のイメージが強く、だから同じく根なし草的なクライバーが尊敬していたんだね。という話でまとめた方がきれいなように思いますが、片山さんのイメージがそうではないか、これだとクライバーの独自性がなかなか出てこないということなんですかね?

齋藤秀雄式の楽譜だけを見た客観主義というのはよくあるが、レパートリーが広かった父親の影響のもと、民族的を超えた共通語のようなものを踏まえた客観主義がクライバーの特徴であるとのこと。

結構齋藤秀雄を覚めた感じで語っているが印象的。私もこういった客観は、やっぱり一種の幻想だと思うんですよね。
しかし、民族性、を強調しすぎて、国籍を基にして排他的になる傾向も良いとは思わない。楽譜なり、演奏をよく聞いて、この曲はどのような感動を伝えようとしているのか、ということを感じ取るのが、一番の演奏の指針になるべきだと思っています。

鑑賞の世界には、クラシック音楽の美意識をかなり深く捉えた論壇が存在するところには存在したと思うのですが、それが、演奏の世界と、ほぼ切れてしまっているのが、日本の音楽界のまずいところだったのではないかなぁ、と思います。こうやって考えるとやはり、細分化されていて、相互に交渉がなかったのが問題といえるでしょう。吉田秀和にはそのような美意識を掬い上げて、受け渡す力がなかったと思います。結果からもそういえるでしょう。

周囲がクライバー本人が出るかでないかもわからないのに、期待してヨーロッパに出かけていく中で、自分は出かけることはなかったとのこと。

全部の文章を通して、強烈なクライバー体験、のようなものが書かれている個所は見つからず、感動した、というようなところも無かったでしょう。正直なところ、インタヴューは受けたので研究はしたのでしょうけど、熱中の対象ではいまだに無いのでしょう。

それは片山さんが評論家の中でも、指揮芸術や、演奏の微細なニュアンスに興味があるタイプではなく(聴く力はありますが)、曲、それも現代音楽が専門だからということもあるのでしょう。しかし、正直、私もそこまで、興味がある指揮者ではないですね。

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