戸栗美術館 館蔵 青磁名品展―翠・碧・青― その15

#その他芸術、アート

北原さんはフォロワーの目標人数達成、おめでとうございます!努力の過程が面白いです(^_^;)目標があるというのはとても良いことだと思います。

大島さんのあくびは、中島美嘉さんっぽい雰囲気で、面白いです!もしくはFFみたいな空気感でしょうか。

「京都いろどり日記」の第4回の「京都で見つけた秋の色」は、続いては「泉涌寺塔頭雲龍院」で写経。

そのまえに酒水という、水を含ませた棒で頭をチョンとやるお清めの儀式がありましたけど、あそこは東洋医学的には百会という気が入ってくるツボがある場所といわれていて、そういう天の清浄な気を取り入れるための、体験的な習俗なのでしょう。

花祭の、誕生仏に甘茶をかける習慣にも、同じような意味があるのだと思います。

こういうのも将来科学的に、裏付けられるんですかね。

お香で手を清めたり、丁字を口に含む、というのも面白いですよね。

写経をする時に、黄金と同等の価値があるくらい貴重だった朱を使うことによって功徳が上がる、という説明で、朱を使っていましたけど、この「功徳」という言葉もなかなか難しいもの。

功徳というと達磨大師の「無功徳」の言葉が有名で、唯物主義的に現代では解釈されることが多いですが、実際に禅の合理主義の一端を示している言葉であるのは間違いないとは思います。しかしここで注目されるのは、達磨大師は決して寺を建てるな、とは言っていないということです。

つまり、寺を建てたり、お経を写したり、お坊さんを招くことに、直接非現実的な利益があるというわけでは無いですが、それ自体に何の意味もないわけでは無い。

禅では「修証一如」ということを強調しますが、そういう中で道心に基づいて寺を建てる動作そのものには功徳があるというべきなんだろうと思うんです。それを強調するが故の、無駄な部分を否定した「無功徳」だと思うのです。

それと、やったことに対して(「有」であると錯覚して)自己満足に陥るのを戒めているのでしょう。

また、仏教自体が栄えるのも素晴らしいことで、達磨がこれを否定するわけがないばかりか、一番のライフワークだったといえるでしょう。

仏教美術は古来手間やお金をかけることで、信仰心を込めるものでした。ここでも、朱という大切なものを使うことそのこと自体に、信仰心(道的な向上心)が込められており、それを功徳と呼んでいるといえるでしょう。「朱」自体も力強いもので、もちろんモノそのものの意味も含まれているでしょうが。

「功徳」というとお師家さんの中にも、自分は迷信的なくだらないことを言っているな、と思いながら観光的にやっている人も多いですけど、その本質は非常に深く、現代にとって大切なことだと思います。

それこそ道心に基づいて功徳を説いてくれれば、日本の仏教界ももっと幸わうだろうと思うのです。

善人なおもて往生をとぐ~であるとか、象徴的に否定の表現を使って、限定的に強意の肯定を行うのは、仏教の表現の特徴ですよね。

願い事の「不言実行」は格好良いと思います!男は黙ってなんとやら、ですね。さすが大和さん。

最後に合掌をしていた奥の金銅仏っぽい薬師三尊像も、良い味わいがあります。苔生す庭も素晴らしかったです!

皆様、おやすみなさい。

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