朝日新聞夕刊2013年下半期その3

#練習用

夕刊の高畑勲の連続インタヴューは、全身アンチ宮崎駿のような雰囲気で、良くコンビが続いているな、とすら思う内容。「多くの女性は現実的で日常に根ざしている」といった、女性観あたりに共通点があるのかもしれません。

「宮さんは具体的なものが先にあり、それを積み重ねてイメージを作っているとしか思えない。」と具象の宮崎に対して、自らを観念的・高踏的な区分に割り振ろうとしているようにすら読める内容ですが、「ポニョ」などをみても、漠然としながらも強烈で鋭いイメージが先にあるのは明らかです。それを場面に象徴的に落とし込むのが得意で、そこから創作を始めているのでしょう。むしろ高畑さんの方が全体の構成が散漫にもみえるのは、かえって全体を支配する漠然としたイメージが弱いからではないか。

同じく連続インタヴュー企画では、ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんの「あるとき、修練長という50代のアメリカ人の方が私の後ろに立って、何を考えながらお皿を並べているのですか、と英語でおっしゃいました。私はとっさに、何も考えていません、ナッシングと。するとその方はとても厳しい表情になって、あなたは時間を無駄にしているといったのです。(中略)「同じお皿を並べるのなら、夕食に座る方々のために祈りながら並べてはどうですか。」」という文章が印象に残りました。

これは良く禅で言われていることで、夢中問答の山水の得失の話

404 NOT FOUND | 社会通鑑~See through the media&society~

について前に引用しましたけど、修行も同じで、漫然とやっているだけではだめで、日常の動作でも禅だと思ってやることで初めて効果が出てくる、という考えなんですよね。

キリスト教にも同じような考えがあるのだな、というのが発見でした。聖書だけを読んでいてはわからない部分でしょう。

逆に典拠とかはあるのか、といった所も気になるところ。どのような考えから生じた習慣なのでしょうね。

似たような教えは浄土系でもあるんですけど、こういうことを教えられる、ということは、逆に、どっちの伝統も受け継げていない現代の日本人、の姿も観えてきますよね。

典座にしても、寺や庭の掃除にしても、こういう気持ちでやらないと成果が上がらないんですよね。逆に言うと、日常の主婦の方々がなさっているようなことも、気の持ちようによって最上の修行になるということです。

わたしは常日頃身体性ということを強調します。そのなかで象徴的にスポーツであるとか体力であるとか、運動能力を中心に語るのですが、それはもちろん大切として、こういう心掛けが非常に大切なんですよね。そこで、身体で悟る(向上する)宗教としての、禅や浄土系の考えが非常に大切になってくるわけです。

筋トレすると脳みそが筋肉になる、などとふざけて言われたりしますが、そういうのに打ち込んでスポーツで勝つよりも、日常の動作をエレガントにやったほうが、身体性が上がるということがあるわけです。

例えば教育の中で、ナイフを使って鉛筆を削るといいとか、火を起こせると良いとか、裸足での幼稚園・保育園での教育とか、重視する父母も多いと思います。

これは刃物の使い方を覚えるのだ、というよな理由を口でおっしゃる人も多いと思うんですけど、その裏で、そういうことをすることで高まる身体性による教育効果を無意識的に意識している人はかなり多いと思うんです。スポーツそのものをやるより、そういったことの方が、効果が高い場合がある。

特に介護といった仕事は、人の命と直接触れ合うわけで、人の気の持ちようによっては最上の修行になりえます。仕組みなどをうまく整えて、介護の仕事を現代の禅堂にできないか、というのが、私がひそかに日頃考えていることなのです。

海外に行くと、禅の一番楽で効率の良い身に着け方は何だ、と聞かれることが多々あるそうですが、私だったら日常のすべてを禅の修行の機会と捉えて行うことだ、というでしょう。ずっとやっているのですから、一番効率が高いですよね。

実際に海舟とか、近世以前の過去の偉人を観ていると、すべて修行だと捉えている人が多いです。こういう考えだと、難局でも余裕が出てきて、強くなるんですよね。

12月14日のbeの相撲特集での元舞の海の証言によると、力士は減量もしていたらしく、短い間でも業界の風土はかなり変わってしまうのだなと思いました。

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