日本サポーターのごみ拾いに称賛の声 コートジボワール戦後に数百人参加

#その他文化活動

16日のラジオでは司馬遼太郎さんが書いた乃木希典についてやっていて、戦前に軍神と崇められたのを事実に基づいてそういう人じゃなかったということを書いた、と井上ひさしさんなどが言っていた司馬の乃木像への評に近いものを。
当時は遺族などもいて非難があって大変だった、とのこと。

放送では事実を書いて素晴らしいということでしたけど、最近は乃木の作戦は是非がなかった、と再評価されている模様。そうであれば司馬遼太郎さんの乃木評も、ただ客観的なものではなかったといえるでしょう。

戦後は戦前(日本)の価値観さえ壊してしまえば拍手喝采、という所があったんだと思うんですよね。遺族から非難はあったかもしれませんが、それ以上に売れたのでしょう。それは坂の上の雲に希望を見出してしまう国民性と表裏一体のものでしたが。

他にも司馬遼太郎さんには、間違った情報や偏見に基づく戦前・日本文化批判がたくさんあります。

それでいて天皇の責任に触れることはなく、軍部についても、無責任のシステムというだけで個々の責任に触れることはありませんでした。

だからこそ国民作家としての地位を築くことができたわけですが、それは嘘の溜飲の下がり方だったのではないか。

その嘘の溜飲の下がり方や、責任追及をして原因を明らかにしないで辛さだけをぽっと取り出して教え込んだ教育のつけとして、現代の極端に右傾化した国のありようがあるということが振り返られなければなりません。

今回の震災でも、見当違いの批判をして、嘘の溜飲の下げ方を繰り返すことはしてはなりません。

6月17日のとべさるではパックンが「日本サポーターのごみ拾いに称賛の声 コートジボワール戦後に数百人参加」(http://sankei.jp.msn.com/sports/news/140617/wcj14061711450006-n1.htm)を、誉めるようなそぶりをしたのちに、日本の集団主義と批判。

これはやっぱり学校での掃除が関係していますよね。掃除は禅堂でも重要な修行のひとつに位置づけられていますが、そういう精神を生かした教育で、私は良いものだと思います。ただ、各人の負担を公平にするために、もっと先生は介入してよいと思います。

パックンは「負けたけどハイタッチ…渋谷、赤信号の交差点で」(http://www.yomiuri.co.jp/national/20140615-OYT1T50082.html?from=ycont_latest)では、大した騒ぎになっておらず、抑え込めないような暴走が無い、と批判。

一貫してまず触れませんけど、だったら原発の話でもして、個人主義と抑えられない暴走力をパックンには見せつけてほしいものです。

おすぎさんやピーコさんも全くみかけなくなりましたけど、まともな発言をしていればだいたい干されます。

イギリスでは、上流階級が下の階級を、集団主義だと見下していると聞きました。

国の内外を問わず、あいつらは集団主義だから、というのは差別意識の最たるものです。

イギリスの例でいえば庶民はお金が無いので、その分の福祉の代わりを支え合いで補い合わないとどうしようもない。貴族はそれをする必要が無い。お金があることが優れた人間なのだろうか?そういう結論を出すためのワンクッション置いた表現による差別が集団主義というワードと言えます。

そういう意味では、日本もユニセフの支援を受けていたのは今の現役世代です。(震災でも受けましたが)

アメリカはインディアンの土地を奪って早くから豊かになったでしょう。
パックンは確かにお金持ちではなかったかもしれませんが、特定の地域の有色人種ではないというだけでアメリカでは圧倒的に恵まれているのです。

言う方も言われる方ももこの言葉の差別的な側面にもっと敏感になるべきだと考えています。

それだけが日本の精神ではありませんが、新渡戸稲造の「武士道」に書かれていることなど、かなり理想性の高い個人主義です。パックンのような声を、必要以上に気にしないで、個人で動くべきところは個人で動いで集団で協力するべきところは協力する、文化を受け継ぎつつ作って行くべきだと私は考えています。

一方その裏ではたまむすびで町山智浩さんが、アメリカでは1パーセントが国の富の45パーセントを握っている。なぜこうなってしまったのか、ということ紐解いて日本にそうならないように参考にしてほしい、という話を。

アメリカは昔から大資本家が牛耳っていたと思ったんですけど、だんだん形成されてきたものなんですね。

パックンはこういうのは言わないんですよね。

アメリカこそ本当の意味での和や、個人主義の前提になるスタートの平等が必要なのではないですか、と問いかけたいです。

説明する映画も内容的に重なってくるもので、人口を頼みにインドにスーパースターの原石を探しに行くメジャーリーグのエージェントの話。

巨大なやり投げの選手を結局スカウトするのですが、全くガッツがありません。

なんでもインドの人は「格差が大きすぎて金持ちになろうと思えない」からだとのこと。ここら辺も非常に示唆的ですよね。新自由主義が人の意欲を削いでいる例ですし、マックス・ウェーバーが指摘する怠惰の本当の根源がわかります。搾取して押し込めた相手に気力が無いというのは究極の差別です。

「頑張れと言われてもわからない」らしく「お前らドリームってないのかよ!」というと「無いです」といわれたとのこと。

「欲望とは植えつけられるものなんですよ」「欲望とは与えられると育っていく」ということがわかる描写だということ。

煩悩とは自分がつくりだすもの、という仏教理論とも一致します。

なんでMLBがインドや中国の選手を探そうとしているかというと、第2の姚明を発掘することでその市場を狙っているとのこと。

こういうことを聞いていると、NBAでそこそこ市場規模が大きい日本人が通用しないというのは、余程レヴェルが違うんだろうなと思います。

町山さんの映画製作の立場から言うと「日本は中国市場を開拓してくれないと大作出来ないから困る」とのこと。人民解放軍対ゴジラをやりたいとのこと。

代表的な右傾エンターテイメントといわれる「進撃」を手掛ける町山さんが言うことかとも思いますが。「進撃」のシーンであるとか、テレビなどで否応なしに見かけることがありますが、もしかしたらネット右翼はこういう世界観・感覚なのかとあほ臭さに暗澹とさせられます。

戻ると、ハリウッドの大作が多いのはここら辺の違いもあるのでしょうね。

中国が歴史問題を取り上げるにしても、日本は事実に基づいて誠意を示し、対応して、無駄に付け入る隙を与えないことが一番強力な手段です。

個人主義の話に戻れば、同日のスーパーjチャンネルでは、店が勝手に歩道にテラス席を設けしかたが無く車道を歩いている大阪の市民の状況を特集。アメリカよ、これが日本の個人主義だ。というのは冗談として、実際ここ出身の司馬遼太郎さんがこれを個人主義だということで活動していって、自分勝手な国になってしまったんですよね。

こういう自分勝手な人間に限っていざという時は権力に弱い。団塊の一部の人など、そういう傾向が顕著だと思います。

戦後の日本人は個人主義と自分勝手をはき違えてしまった、というのは前に書きましたが、そういった経験を止揚して、今の日本は理想的な意味での個人主義・集団主義を追求して行く段階に来ているのではないでしょうか。

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