齋藤希史さんの白川静ブームへの警鐘

齋藤希史さんの白川静ブームへの警鐘を鳴らす文章をネットで目にしたんですけど、古代社会が専門で、それ以外をあまり語らない白川静さんの著作だけを読むと、偏った東洋への認識になってしまうのではないかということ。

「孔子伝」をよむと分かるんですけど、孔子(や老子や荘子)が白川さんがイデアという言葉で表現する純粋な世界を形成していたのに対して、亜聖と呼ばれる孟子や荀子の時代になると理想性が薄れてしまい、漢代になると孔子の物まねのようになってしまう。ということを書いています。

つまり古代の方が理想性が高い思想が行われていた、ということを言っているわけで、これはほかの世界でも良くあります。

西洋でもソクラテスや聖書のイエスそのものがそういう文脈で脚光を浴びることがあります。

仏教でも余計な夾雑物が増えてくるたびに仏陀に帰れということが言われます。中村元さんが「ブッダのことば」を平易な言葉で刊行した仕事の漢文版だというふうに理解すると、この「孔子伝」の本質がいくらか観えてくるのではないでしょうか。

そういう思想から言えば、古代に的を絞っているのは奇異とは言えない。

それにそもそもご本人が、文字学は手段であって本当の自分の目的は古代の中国を通して古代の日本を理解することだとおっしゃっているのですから、古代に的を絞られているのは自然なことなのではないでしょうか。

古代以外の中国を「無効化」しているのではなく、そもそも焦点は日本の解明にあって、古代中国の呪は日本の神道の祈りや自然に対する感性に受け継がれた、ということを示したのでしょう。(この点白川静さんを批判される中文学者の人たちの「呪」という概念に対する誤解やマイナスのイメージは何とかならないものかと思います。ここら辺は中文学者の人たちが仏教を排除しがちなのとも同根だと考えています。)

人生の中で時間は限られているわけですし、あれだけの仕事なのですから、これくらいに時代を絞らなければ無理だったというのもあるでしょう。

白川静さんは戦後に聖書を読んでいたといわれますが、おそらく敗戦を迎えて西洋に対する東洋思想というものを練られていたんだと思います。そういう中で孔子の様な原点に返るのは必然だったといえるのではないでしょうか。

そういう意味でも、あんまり下った時代を含めていくと、古い社会制度や身分的な側面、差別・ジェンダーの問題でがんじがらめになっている部分もあります。

また儒教は支配階級の道具だったという批判があり、それがどの程度当たっているかは別として、より古い孔子から純粋なところを取り出せば、そのような下った時代の歪みを回避することができます。

古代以外の思想からそういうのを丹念に取り除いて行ってエッセンスを抽出するというのも有意義かもしれませんが、まずは一番古代的でそういったものを免れていて根本的な、商代の原始神道につながる側面や、孔子を提示するのは賢明といえるでしょう。

それに、白川静さんは伝統的な漢文教育にすべてではないにせよ同意しており、それの中には中国の下った時代のものも含まれます。

子どもへの教育の提言としては、纏まったものに「知の愉しみ 知の力」白川 静 (著), 渡部 昇一 (著))の143ページに書かれたものがありますが、時代や和漢洋に関わらない広い読書を求めています。漢文は四書五経だけではないともあります。ここら辺は「十八史略」を薦めるいわゆる保守論客である渡辺氏との対照も興味深いでしょう。

商について言えば、商では女性の地位が高かったとされており、(白川さんによると)障碍者は神聖視されていました。

孔子はせいぜい「女人と小人は~」というのがあるくらいですが、これも離婚を経験した孔子のボヤキ程度のものとも言えますし、現代的ではないとして外す、もしくは錯簡として処理することもできます

孔子ならこれぐらいでなんとかなりますけど、それ以外は儒教は雑多です。それでも西洋思想に比べて女性差別的だとは思いませんが。

ちなみに白川静さんは論語の中でこういったところには決して共鳴しないのが当然ながら本格的です。

古代しか語らないとしてそれを「歴史としての中国の排除」と書かれていますけど、ナショナリスティックに排除しようとする人ではありません。最晩年まで、今度は蘇東坡について書きたいと確か書いていました。(専門ではないですけど、禅も中国思想を発展させたものだと評価していました。)

そもそもそういうことを言うのであれば、中文学者の人たちは仏教をまっさらに排除して東洋思想と称することがありますけど、それだけで非常に偏っているといえます。

繰り返しになりますが、特に白川静さんは基本的な純粋な部分を取り出していますし、それぞれの専門家が部分的なのはある程度仕方がないのではないでしょうか。

中国を「排除」してきたのではなく、日本が平和だったり地理的な関係、訓読の意味を確認していく効用などもあって、中国以上に中国の学問の成果をよく理解して発展させてきたともいえるといっているのでしょう。
この「排除」の部分はあらぬ誤解を招きそうな表現だなと感じます。

ちなみに、仏教との関連で言えば、一般に仏教学者は儒教など中国思想を、民衆支配のためのドグマ、として軽視する傾向にあり、逆に中文学者は仏教を迷信的な宗教として無視する傾向があります。

そういう風に仏教側から観たときに、白川静さんのイデア・ノモスという分け方は、ドグマティックに陥っていない中国思想を取り出す分類法として非常に優れたものだといえます。

このような大事ながら特に現代の中文学者が正面から取り組まないような問題に答えているところが非常に素晴らしいと思っています。

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