(http://www.asahi.com/articles/DA3S12390175.html)では
「日本独自の」というのは、ここには、人は「私」を「無」にし、「私」を空しくすることではじめて本当のもの(西田のいう真実在)へ接近できる、という考えがあるからだ。しかも、その「真」なるものは、言葉で把握できるものではなく、言葉以前のところにある。
とのことですけど、キリスト教の「右の頬をぶたれたら、左の頬を差しだしなさい」ですとか典型的に「無私」の思想だと思うんですよね。
こういった比較は西洋思想の中でキリスト教を無視しすぎだと思う。
この「把握」の方法も荘子の「渾沌」の説話などに示されているもので、日本独自のと言ってしまうのはどういうことなのだろうと思います。
ただ、ナショナリズムから自由で、もっと視点が世界的ですけど、井筒俊彦氏が西田幾多郎に興味を持っていた、というのはここら辺の事からうかがえる感じがしますよね。「意識と本質」で深く掘られていることに似ていて、課題的には共通のものをもってはいたのだと思います。
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