ヨーロッパの道徳は「容赦ない社会」が生んだ「平等」も「人権」も、次善の策にすぎない その4

記事の「容赦のない社会」だから道徳があるというのは少しおかしいと思う。「容赦のない社会」でも道徳のないところは多いからです。そして、欧米にしても政治的には多少日本より道徳が残っていると思いますが、犯罪なども多く、個人のレヴェルでそんなに優れているとは思えない。

ここからは記事と大きく離れる私の個人的な意見ですが、原発事故にしても誰一人責任を取らず、その他の問題にしてもあらゆることが無責任です。太平洋戦争、グリーンピア、バブル……。日本は欧米と比べても無責任社会が極まっているといえます。

なぜなのか?

その違いは明治日本のように社会全体で文化・宗教を投げ捨てた体験が無いことが一つ。

そしてもう一つは日本は平等であるがゆえに「社会契約」に依存的に立脚しているというのがあると思います。

ヨーロッパは本質的に階級社会です。
階級社会であるからこそ、日本の武士がそうであったようにトップにモラル重視の考えが残っていることがあります。

封建制度の武士は、田を耕すことも要らねば、物を売買することも要らず、厭でも応でも書物でも読んで、忠義とか廉恥とか騒がなければ仕方がなかつたのだ。(「氷川清話 (講談社学術文庫) 」(勝 海舟 (著), 江藤 淳 (編集), 松浦 玲 (編集)340ページ)

という勝海舟の指摘は鋭く、示唆に富んでいます。

不平等であるがゆえに義務を果たさなければいけない。
良く言われる「ノブレス・オブリージュ」です。
そこに「道徳」が残存する余地が日本よりあるのです。

そういう意味では記事冒頭の車内放送はたしかに「容赦のない社会」の象徴であり、道徳的な社会の裏付けとなるものなのだと思います。

しかし同時に、この庶民に対する冷たさは平等とは遠い階級社会の印であり、私にとって「手を叩きたくなるほどの「快挙」」とは思わない理由なのです。

(実情の一つの例として「「日本型教育」は世界で類を見ないほど平等だ ドイツでは小学4年生の段階で将来を決める」(http://toyokeizai.net/articles/-/155227)という記事が近々では出てきました。
「(ピケティコラム@ルモンド)ベーシックインカム 公正な賃金、考える土台に」(http://www.asahi.com/articles/DA3S12715517.html)に限らずフランスの格差の再生産の構図は指摘され続けてきました。
これが「容赦ない社会」の実態であるわけです。)

そして階級の代わりに日本に代入されているのが「学歴と金」だと思う。
それは契約的であるがゆえに道徳の入り込む余地が狭い。
近々では舛添要一は典型でしたね。世襲政治家は「金」の象徴でしょう。

私は当然階級は無い方が良いと思っていますが、現状は皮肉であるといわざるを得ません。

これを克服するために、これからの日本は道徳も含めて総合的に、身体性にしても精神性にしても優れた人材を多く生み出し、リーダーに据えて行かなければならない。

また、文化や宗教の本質を大切にしていかなければならない。

歴史の大きな流れからいえば多少の揺り戻しがあっても階級が解消される方向に欧米も向かうのは必然であると考えます。その時に、日本が上手くモデルチェンジに成功していればモデルになりうる。

日本は脱階級社会でありながら、モラル、精神性・身体性を確立した、新しい社会を世界に先駆けて確立するチャンスを得ていると私は考えています。

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