スーパープレゼンテーション「お金があると、人は意地悪になる?」カリフォルニア大学バークレー校の社会心理学者ポール・ピフ その2

#練習用

こういうのを聞くと改めて「清富の思想」ってどうなんだろうと思いますね。

しかし仏教の無の論理で、富を無いと思えばお金持ちでも清らかに生きることは理屈としては可能です。だから江戸時代の商家は仏教や儒教などの教えを大切にしたんでしょうね。

そうして得られたお金は結果的に利他的に使われることにもなるでしょう。

しかし実際はなかなか難しいことも多いと思います。
なので「お金持ちの人が神様の国に入るよりラクダが針の穴を通るほうが簡単だ」などと新約聖書でもいうのでしょう。
この研究自体もそういう言葉自体が発想の源にあった可能性がありますよね。

宗教を中核とする古典思想には理系を始めとした学問の創造性が眠っています。

この難しさを自覚しないで悪い意味で楽天的に「清貧の思想」を否定し「清富の思想」なるものを優越的なものとして語る「知識人」が多いことに私は危惧を覚えるのです。

それは古典の智慧を忘れた時代の危うさであるとも言えます。その危うさを改めて科学の側面から我々に警鐘を鳴らした研究がこのプレゼンテーションといえるでしょう。

「修行者は必ず貧でなければならない」と道元は言っていますけど、彼のパトロンの武士たちは必ずしも貧乏ではない。道元自体も国全体で言えばお金を持っていた方だったでしょう。
そうであれば「貧」というのは実際の貧乏ではなく、境位としての「貧」を表しているのかもしれない。

だからお金を持っていていいんだというとこれまた堕落をする可能性もありますけどね。実際に貧であることもやはり大切です。
そういう思想と現実に緩やかに二重にかかるような言葉が仏教には多く、現実世界に対して有効な言葉の使われ方です(道元が詩的といわれるのもこういった所に理由があります)。言語の緩やかな二重性とでも言おうか。

これを知らないと多くの仏教の言葉は誤解されるでしょう。
例えば時に出家至上主義と誤解される道元の出家に関する記述も同じ意味なのだと思う。

ウォーレン・バフェットであるとかはそういうお金持ちでありながら清貧の思想を達成した一人なのかもしれません。そうであれば、お金に仏教的な意味で執着しないで、清明で合理的な頭脳をもって使えるはずなので、お金を持っている分だけ強いですよね。

そういう人は江戸期の商売人にもいたことでしょうし、現代にも何人かいるのかもしれない。

清貧の思想こそが商売の極意といえるのではないか。

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