司馬遼太郎さんの記述や会話には相手が微に入り細に入り知らないと思って、嘘のトリビアがたくさんちりばめられている。相手は面と向かって間違っているよとは言えない。もしくは気づかない。
私が今まで読んだ中で対談中に正しく間違えを指摘したのは岡本太郎氏だけです。司馬遼太郎氏は岡本太郎氏を大阪万博に推薦した昵懇の仲でした。この後二人の親交は知られておらず、司馬遼太郎さんも岡本太郎氏について触れたことはなかったと思うので、この時に事実上絶交したのだと思う。(「司馬遼太郎 歴史歓談」 司馬 遼太郎 (著)所収)
(ちなみにこの対談集は司馬遼太郎さんが「大作家」として確立される以前の本音と思われる放言が結構のっていて興味深いです。)
「師を求めて日本中を遍歴し、ついに岡山県の山の奥に山田方谷という元家老が隠棲しているのをみつけて数カ月教えをうけた。長岡に帰るときに“先生なら、三井の番頭が務まりますね”とほめた。ほめられた側も喜んだ。侍の世がおわって町人の世が来ることを江戸末期に岡山の山中で師弟が話しあったわけです。帰って藩政を一新し、ヨーロッパのルクセンブルク大公国のような藩にしようとした。徳川にも関係なく、薩摩・長州にも関係なく、武装中立でいこうとした。しかし時代の暴力的な流れに押し流されてしまう。日本史の一大損失でした。
この時代、河井継之助は新しい国家の青写真を持った唯一に近い――坂本竜馬も持ちましたが――人物だったのに、歴史は彼を忘れてしまっている。」(街道をゆく 40 台湾紀行 (朝日文庫) 司馬 遼太郎 (著)(393ページ))
は「峠」の描写をノンフィクションである対談で繰り返したもの。
ちなみにこの時山田方谷は現役バリバリで藩政を指揮しており、隠棲などしていません。(山田方谷を語る 十一 藩政の充実(http://www.city.takahashi.okayama.jp/soshiki/2/yamadahokokustory11.html)参照)
河井継之助は農民出身の方谷に対して明らかに身分差別的な尊大な感情を持っていたようですが、有名な家老だからととりあえず学んでいるうちにその影響を受けるようになったというのが実際のようです。
以前にも指摘しましたが(東京国立博物館 日本テレビ開局60年 特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」 その3
「三井の番頭」の話も創作のはず。
嘘の話だけでは無くて、歴史人物の思想。時代の思想すら創作したといえます。
恐らくその方が登場人物、自分が語る人物が「近代的」になり格好良いと判断したのです。
それは時代意識の捏造です。良くこの少ない行にこれだけ捏造を詰め込んだな、と司馬遼太郎さんの文章を読むといつもマイナスの意味で感心します。
ただ、創作を立証するのは一種の悪魔の証明であって難しい。
司馬遼太郎さんはそれを承知で、創作をしたり、随筆・対談・講演で小説における創作を事実のように語っていると感じますね。
随筆でもあまりにあっさり嘘を付いているところが多すぎる。裏を取っていない司馬遼太郎さんの記述は一切信頼するべきではないというのが私がずっと主張してきたことです。
「街道をゆく 40 台湾紀行」((朝日文庫) 司馬 遼太郎 (著))はこんなに嘘ばかり書いているのに、アマゾンのレビューでは絶賛の嵐。世の大体の読者がこういう感想を持っているのだと思う。
また、これは一例であって他の本にも言えることです。
「権威」だから正しいことを言っていると思い込んでいるのでしょう。
正直憐れにすら感じますし、こういうのを間違えだと訂正しない世の学者にも肚が立ちます。
従前の司馬遼太郎さんに批判的な人でも、文化的な記述は評価する人が多く、小説以外の歴史的な記述は疑うことなく受け入れた。
しかしそこが捏造だらけなのです。
信じる人は学者など社会の検閲を受けているという前提が頭の中で働いているはずであり、正さない学者は相当責任が重いと私は考えています。
そしていまだにこういった誤りを指摘せずに頬かむりし、司馬遼太郎氏を高く評価してメディアに登場する歴史学者まで存在するのです。
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