以前にも書きましたけど、近世以前・江戸時代は簡単に暗殺されてしまうので、政治を行う際にみんなの意見を聞いてから決めよう、という意識を芽生えさせたり、少数者に強い不満を抱かせないような政治の裏付けになっていたと思うんですよね。いわゆる「世論政治」を支える一つのファクターになっていた。
最近は権力者のセキュリティが堅いので、それが逆向きになりつつあるというのはあるとおもう。
コメンテーターの人たちが通り一遍のことしか言わないように、日頃本を読んでいてあんまり暗殺について正面から論じられるということは少ないのですが、暗殺について珍しく論じているのは司馬遼太郎氏とその評論本である「司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰・龍馬・晋作の実像」(一坂太郎 (著))。これは最近読みました。
桜田門外の変を例外に暗殺を否定した司馬遼太郎氏。それに対して弱者の最後の手段である暗殺を奪ってしまうその主張に疑問を呈し、社会的影響を考察する一坂太郎氏。(同書43ページ以下)
私はこれもそうですけど、司馬遼太郎さんは、革命の初期の人はみんな死んでしまい、それを引き継いだ人も多くが死に、結局は最後に出てきた人たちが利益を享受する、という革命三段階説がより問題だと思うんですよ。
これは社会問題に抗議しても馬鹿を見るだけ、というメッセージを強く含んでいます。
実際にどうなのか、といえば、確かに世代的なこともあって初期の人は早く死にやすいですが、日本で言えば維新の三傑は不慮の事件などで死んだとはいえ、初期のメンバーに含めても良いだろうし、伊藤博文あたりも英国大使館を焼き討ちするなど初期の過激派の雰囲気を纏っている。必ずしも報われずにのたれ死んだとも思わないのです。
2つを総合すると、結局権力に抗議するだけ無駄、してはいけないというメッセージが読み取れるのではないかと思います。
加えて、生来日本人が大人しい民族であるかのように描き、竜馬などを「例外」として描く歴史観でもあります。これは最新研究が明らかにする江戸時代(加えて戦前)の姿とはかけ離れています。
戦後の、昭和の後半以降の反民主主義ともいえるくらいに「大人しい」日本人を作り上げる際に司馬文学は強く作用したといえるのではないか。
司馬遼太郎氏を尊敬する孫正義氏などが一見破天荒にみえて、人権に興味が無いというような意味も含めて非政治的なのは符合するところだと思います。
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