「米・ムハンマド風刺画展で発砲、容疑者2人を射殺」(http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2484305.html)はいろいろな問題を含んだ事件。
すぐ殺してしまうのは、裁判になると死刑にできなかったり面倒くさいからなのか。
そう思わせるところがありますよね。しかし真実は闇の中になります。
この風刺展は中立なものなのかどうなのかと思って調べると、主催者はグラウンド・ゼロ近くに建設予定のモスクに対して反対運動をしたりしていた人のようで、イスラムを排斥する色が強い人物といえるでしょう。
新聞に、いま人種差別を公に行えないために、文化・宗教を攻撃して人種差別に代えるということが行われているとありました。今回もそのようなものだった可能性は高いでしょう。
フランスは表現の自由を掲げる何倍もの熱意でまずは人種差別の根治・根絶を目指すべきだと思います。
今までの人種差別対策は質・量ともに足りなかったといえます。
表面的には禁じているようでもありあますが、つまりは対処療法だったがために根本原因が解決しておらず別のかたちをとって噴出したということ。
そしてざっくりいって対処療法は西洋文明の根本的な問題と言えます。
戻って、シャルリー・エブドの問題で明らかになったことの一つは、人種差別が公に禁じられるようになったために文化で差別することで人種差別に代えている実態があるということ。
丸山眞男・司馬遼太郎らの日本文化にあらゆる責任を押し付ける議論も日本人による日本人への差別だったのだと思います。
それは西洋に対する依存主義であって名誉白人的なものだったといえるでしょう。
そしてそういったものにすり替えた差別は今も社会のいたるところに存在しているのです。
「「インパール作戦」戦没者の遺骨収集へ」(http://www.tv-asahi.co.jp/dap/bangumi/hst/news/detail.php?news_id=42208)と、今日はインパール作戦の無謀な内容が遺骨収集で改めて話題になりました。3万人以上が亡くなり、南洋などと同じく補給は無くほとんどは餓死です。作戦の最大の責任者と目される牟田口廉也は自己正当化をし続け天寿を全うしています。また軍部の上層部にはすべて責任があります。
当時の日本軍は赤紙で招集すればいくらでも兵士は集まるので、兵士の命などなんとも思っていなかったというんですよね。(「戦没者230万人:兵士を「駒」扱い 愚劣な軍事指導者たち 半藤一利さんインタビュー」(http://mainichi.jp/feature/news/20140815mog00m040002000c.html))
つまり人権意識が全くなかったわけですが、この感覚には軍部の日本人自身に対する差別意識があったと思うのです。
ウィキペディアによると「失敗の本質」では作戦失敗の原因を「「人情」という名の人間関係・組織内融和が優先されて組織の合理性が削がれた点にあると主張している」と「人情」としていますが、別に情があるから組織の論理を優先するのではなく自らの立場に対する「欲」があるからで、むしろ情が無かったのが「失敗の本質」だったといえるのではないか。
上のリンクの事実から言っても「人情」の欠片も存在しません。
この「人情」は欧米人に対する日本人の特徴とされていたもので、この「失敗の本質」からも失敗の本質である、日本人自身に対する差別意識が読み取れるのです。
現代の日本政府も個人の人権に興味が無く、強権的な傾向が強いです。憲法・法律の縛りがなくなれば、どこまでも堕落するでしょう。それもこの軍部の意識と同じようなところから端を発しているのではないか。そしてそれをさらに掘り下げると上のような「差別」意識が根底にあると思うのです。
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