行って参りました。
冬になって銀杏が綺麗です。しーんとした朝の空気に冴えて映り、幹のひだなど、最上の高精細画像のような、感動的な美しさがあります。
公園を抜け平成館に入り、受付に着くと、今まで一度も無かった荷物検査が。何かあったんですか、と聞くと、何も……といった返事。日中関係が関係しているのでしょうか、と重ねて問うと、まぁ……といった、うやむやな肯定が返ってきました。
二階の会場に上ってみると、さらに驚くことに、ロッカーがありません。恐らく爆発物を仕掛けられたりする事を警戒しているということでしょう。
これだけのものが来ているのに、人影もかなりまばらです。
最初は夏や殷といった文明が取り上げられていて、最近は商が主流なのかなと思っていたのですが、展覧会中では殷で通っていました。
殷の出自については「東方の沿海族」(白川静の世界 90ページ)というのが白川説ですが、殷は夏においては西方の一方国に過ぎなかった、との解説があり、この展覧会では出自は西方であるとされています。
都は鄭州や安陽ですし、西周以降、春秋時代には宋の国が殷の遺風を受け継いでいたといわれますが、沿海ではないですよね。殷周革命の際も東の反乱を鎮圧するために遠征をしていたところ西側から周に倒されてしまったらしく、本拠地に近い所で反乱が起こったのかな、と少し腑に落ちない感じも。
沿海系といわれる割には海に縁が無いなと思っていたのですが、西方の国であるというなら納得できる部分があります。
「か」は夏時代の土器で出来た酒器。「爵」も酒器で、殷のお酒や青銅の文化は夏の文化を受け継いでいるらしく、そちらがそもそもであるとのこと。
白川静さんは学術の時代的なこともあるかもしれませんが、こういった文化について殷を起点としていましたが、実は夏が汎東洋的な文化を体現していて、殷はそれを受け継いだ立場だったのかもしれません。そしてそれが周の時代にかなり変質したということでしょう。
「爵」はどれも取っ手を持つと注ぎ口が向かって左を向くように作られており「酒の作法が当時から確立していたことを示す」と解説にありましたが、作法重視で誇りを持っているのが中国らしいかもしれず、日本の研究者は余り重視しない視点ですかね。
この展覧会の特徴は夏・殷と同時代の蜀という文明を特筆していることで、成都で非常に大きな規模の遺跡発掘が進んでいるとのこと。もはや盆地盆地に文明がありそうな感じですね。
金を使用することや人の形を造形化するのは中原の青銅器文化にはみられない特徴、とのこと。
「突目仮面」も「金製仮面」みたことが無い様な遺物で、特徴的な表情。
第二章は「群雄の輝き 楚vs斉・魯」ということで、派手な存在ではないかもしれませんが、それぞれ500年・700年続いています。楚のものでは「羽人」が観たことが無い系統の遺物で、漆で出来た人形で湖北省出土。鳥の頭上で仙人が輝いていてくちばしのようなものも付いています。「座屏」は滑らかで細かい彫りで、美術品として優れています。「浴缶」は水を入れる青銅器で楚独特とのこと。「樽」は端麗な出来の青銅器。
斉・魯のものでは「犠尊」が動物型の酒器で南米に良くありそうな外形。「佩玉」は玉の彫り物として物凄く精緻らしく、たしかに凄く丁寧に作られています。
斉・魯のコーナーでは孔子の出身地であり、中国の古代文化を背負って立つ地域であることが強調されています。日本では戦国時代が郷土の個性の原点といわれますけど、やはり中国も同じなんですかね。
孔子というと、カタログには日本人の著者が「孔子が秦に赴かなかったのは西戎として秦の地を蔑視していたことを端的に表している」と書かれていますが、文化圏が違うので行き辛かっただけではないでしょうか。端的な証拠とするには足りないと思います。
また同項には、陶淵明や竹林七賢など儒教から解放された芸術家が出始める、と南北朝の解説にありましたが、陶淵明は老子的で「儒家的教養」(中国の古代文学〈2〉史記から陶淵明へ 白川静 377ページ)が豊富です。竹林七賢については白川静さんは同書で後漢の士人の慷慨をもって位置づけています。
この「中国の古代文学」という本は、中国の士人のあり方とその現実世界との葛藤を追っていった書物ですが、彼らも儒教から解放されたというより、士人の伝統の中でそれらを内包しつつ越えようとした人達、と捉えるのが適当だと思います。
最近読んだ「雪舟の「山水長巻」―風景絵巻の世界で遊ぼう」((アートセレクション)島尾 新 (著))でも2ページかけて、雪舟=禅の精神とするのはどうか、ということを書いていましたけど、禅が凄くてレヴェルが高いものだと思えばこういう表現は採らないと思うんですよね。
普遍性を持たせたいのが意図だとしても、禅を透過した上での普遍性をいうべきだと思います。
海外でもモーツァルトの宗教曲について、キリスト教に纏わる特殊な曲とするのはどうか、という話を西洋の人が良くするのをみかけますが、これはモーツァルトをさらに普遍的な相で価値を持たせたいという欲求であって、対照的に日本の美術史家は伝統的な精神を軽んじた上でいかにそこから引き離すかということに必死な気がします。
そういった日本人の欲望を歴史全般にわたって最も端的に刺激したのは司馬遼太郎さんですが、そろそろそういった時代は終わりにして日本人・東洋が伝統的に培ってきた精神を正面から見直すべき時期に来ているのではないでしょうか。
第三章の「初めての統一王朝 秦vs漢」では兵馬俑から二点出展。
漢の「竹節博山炉」は博山という伝説の山をかたどったもので、燭台のようで、火炎宝珠のような趣があります。「女性俑」は「男性俑」と服が同じなので、当時男女同装だったことがわかるとのこと。
第四章の「南北の拮抗 北朝vs南朝」では仏教文化が見所で「石造如来及両脇侍立像」は大同にある遺跡の5万1000体のうちの一つであるとのこと。色々な所に行っても北魏の石仏はかなり多いですが、これだけ残存していれば日本にも溢れているのが納得できます。
拓跋国家とは書いていませんでしたが、北朝は中央アジアと関係が深い政権で「童子葡萄唐草文脚杯」など中央アジア産と推定されるという品が。杉山正明さんによると、正倉院にやたらシルクロード物が多いのは、唐まで連なるこの拓跋国家の性質によるものであるとのこと。
「北朝は(中略)後半期には洛陽に遷都し、急速に漢化の道を歩んだ」と解説にありましたが、手持ちの本によると、漢化もしたようですが北朝の皇帝は「中華皇帝たることを強く志向」(中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)川本 芳昭 (著) 113ページ)したらしく、両方の要素の上に君臨したということで、少しニュアンスが違うかもしれません。
南朝の「楼閣人物神亭壺」は神亭壺という壷の上に町を描いたもので、壺中天ならぬ壷上天といった趣。「蓮華文尊」は堂々としたつくりの雄渾な壷。
第五章の「世界帝国の出現 長安vs洛陽」では唐で異国の文化がもてはやされていた、ということで「胡服女性俑」などが出ていましたが、そもそも拓跋国家なので異国といえるのかも微妙だと思います。
「300年以上続いた唐王朝」と解説にありましたが「疾駆する草原の征服者―遼 西夏 金 元」(中国の歴史 (08) 杉山 正明 (著))では 王朝ごとに区切っていく王朝史観に異議を唱えていて、唐の後半は統一国家とはとても呼べない様な混乱の時代であったということが詳細に書かれています。王朝史観は遊牧民の中国での働きを軽視する見方と重なっているらしく、確かに今回の展示は唐はそもそも拓跋国家であるという視点はありませんでしたし、王朝史観と遊牧民軽視がセットになっています。そしてそれは漢族以外を少数民族とする現代中国にとってもマッチする考え方で、受付から展示まで一貫して政治の影を感じさせたのが今回の展覧会の特徴です。
「金剛神坐像」は上半身の描写がダイナミックで、なかなかの迫力。「五花形盤」はクリーミーナ灰色で当時は秘色と呼ばれていたのだそう。
一方「宗教都市洛陽」には十万余体の仏像があるらしく龍門石窟からやってきた「仏坐像」は謹直で端然としています。
第六章は「近世の胎動 遼vs宋」ということですけど、遼という中国王朝風の呼び方はやっぱり気になりますよね。
140年の歳月をかけて建設された「応県木塔」は遼文化を代表する高層建築。「手本は唐の建築様式、北方民族も中央の文化に憧れを抱いた」と解説されていましたけど「東京藝術大学大学美術館 日中国交正常化40周年記念 特別展「草原の王朝 契丹 ―美しき3人のプリンセス―」」https://iroironakizi.work/2012/09/30/53057021/
では遼は唐の文化の後継国家と位置づけられていて、受け継いでいるのは当然だと思います。
「銀製仮面」は「顔立ちに民族的な特徴をみてとることができる」との解説で、朝青龍似です。モンゴルの人は結構、朝青龍っぽい人が多いですよね。
「仏坐像」は手印が変わっていて、拳の背中を合わせた形。
「波濤流雲文扁壺」は遼三彩の名品で、遼で作られた唐三彩を遼三彩と呼ぶとのこと。
宋のものでは「菩薩坐像」が静謐な出来。「阿育王塔」は2008年に発掘された金に輝く絢爛豪華な大きな塔で「塔の王様」と呼ばれているとのこと。豪華極まる品で、今まさに中国の考古発掘は飛躍の時期を迎えているのだな、と感じさせます。
歴史遺物大国中国の巨大さがとても良く理解できた展覧会でした。随所の政治的な雰囲気も直に現代とリンクした緊張感があって、面白いといえば面白かったです(^_^:)
この時期に日中友好に尽くした両主催者の労を念いつつ文章を〆たいと思います。ありがとうございました。
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