券を頂いたので、行って参りました。
「ソンツェンガンポ坐像」は半眼に精神を感じさせる、小さい良い作品。こういう作品はシンプルなだけに、本質的な仏教理解を非常に強く感じます。
第一コーナーに飾られているのは「弥勒菩薩立像」で、空から来臨したかのような姿が、格好よさの極み。「ローカナータ立像」もホースのように伸びた蓮花が美しく、12世紀の古格と、鮮やかさを感じます。
凄まじかったのは「ナイラートミヤー坐像」からの一連の作品群で、「ヴィルーパ坐像」は目を剥いた姿が、白隠のような迫力。
解説にはチベット仏教の説明が。空は女性原理を。方便(慈悲)は男性原理を表すそうです。
何でそうなのかは良く分からないですけど、空じるというのは受容的なので女性的。方便というのは外に働きかけるものなので、男性的なのではないかと思いました。
世の中にはいわゆる名僧といわれる方々がいらっしゃいますけど、そういう人たちを語る時に、男性的な部分と女性的な部分の総和が大きい方々だ、という見方があると思います。
そして時たま、そのバランスが高いところで崩れて、良寛さんのように女性的な部分が強そうな僧侶だったり、鈴木正三の様に男性的な部分が強そうな名僧が出るのだと思います。
私自身も、そういう所を踏まえて成長していけたらな、と思っております(^_^;)
「ダライラマ1世坐像」はふっくらとした静かな像。ダライラマといえば、14世の高度な自治を求める運動ですが、五輪の時の猊下(宮崎哲弥さんは必ずこう呼ぶ)の動きはどうだったたんだろう、としばし考えるのですが、最近は意外とあの動きが最善だったのではないかとも思うようになりました。難しい。
美術館の外でも、展覧会に対する抗議運動のようなものをやっていましたけど、中国などアジアとの関わり方は、これから実に重要ですよねぇ。
前にも書いたとおり、司馬遼太郎さんはプラスマイナス含めて色々書かれた方だと思うんですけど、良い言葉を一つだけ選べ、といわれたら僕は、差別を乗り越えるには好奇心を持つしかない、という(感じの)言葉を選びたいですね。
書かれてはいませんけど、これは逆差別、気分的な意味での負い目のようなものも、同様に打ち消す作用が有ると思います。
歴史はなるべく学術的な形を中心に把握し、好奇心を持ち続ける。
アジアの国々に対しては、こういう態度を基軸に接していくのが、良いと思います。
「十一面千手千眼菩薩立像」は千手観音にしても、手の数が多い作品。チベットの十一面観音は顔がトーテムポールのように縦に配置されていて、暴悪大笑面は上から二番目にあります(笑)
思わず痺れたのは「緑ターラー立像」で、まばゆい位の美しい女神像です。
インドっぽい色香がありまして・・・・・ありがたや、ありがたや。
玉で出来たはんこも幾つかあって、漢民族との深い関わりが示されます。チベット仏教が、山から流れる小川のように中原を浸していたのだなぁ、と感じさせます。
「八吉祥」は流麗な造りが特徴の連作で、空とたなびく雲を連想させずにはいられません。全て通して、非常に天に近い展覧会であった、というのが一番の印象です。
交渉諸々、凄く手間がかかったようで、文字通りお疲れさまでした(笑)仏像ブームと呼ばれた本年の掉尾を飾る、仏教の根元付近にして、絢爛な展覧会でした。ありがとうございました。
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