大野は気合の入った人だということは知っていたのですが、正直その勉強量と気合に驚かされました。外国語能力と併せてあれは殆ど学者の領域です(笑)ピアノに編曲っていうのも素晴らしい執念です。
しかし、日本人ならこれ位の気合と勉強が無いと生き残れない事の証左でも有るわけで、枯れた感じの良い演奏をする人や、頭の要らない奇人演奏家が活躍する場の狭さもなんとはなしに感じました。
テレビに合わせてハプニングが起こるもので、イゾルテ役の人が直前に歌えなくなってしまいました。
といわけで仕方が無いのでゲネプロで大野がイゾルテを歌うといった時は思わずエ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!?と声を出してしまいました(笑)んな、あほな(笑)トリスタンとイゾルテは聞くだけで疲れてしまう位長いんですよね。
本番も成功だったみたいで、今度機会があったら大野のオペラには是非接したいと思いました。
以下は苦言っぽくなるのですが、以前に大野の指揮に接した時に、他の火の鳥とかの曲では指揮棒を使っていたのにモーツァルトの交響曲31番を振るときには指揮棒を持たずに振っていたということがありました。
これは要するにモーツァルトの時代では指揮棒が余り一般的ではなかった。俺はそれを踏まえて振っているんだぞとの事で、自らの勉学の成果を示して統率力を増す為の符丁なのだと思いますが、指揮棒を使わないことでモーツァルト演奏に顕著なプラスが有るとは思えず、その範囲に於いて大野は音楽そのものではなく、大野のクラシック音楽理解に懐疑的な客(日本ではあんまり居ないでしょうが)やオーケストラ団員の方を向いているといえます。
もう一ついえば、ここはこういう場面だからこういう音を出すんだ、というのは凄まじい勉強量を感じさせますが、見方によっては勉強で得た成果で自らの感覚を封殺しているわけで、この様に皆がやってしまえばみんな似たような音楽になってしまいます。
記号的な正しさ、理論というのは人を説得しやすいのですが、それがまた感動的な音楽につながるかというと別の問題です。私の好きな過去のクラシック界の演奏家達は口では楽譜に忠実とか言いながら曲より自分の個性に忠実な人が殆どですし、中には楽譜まで改変してしまうような人も居ます。
つまり現在の地位を得るために費やすエネルギーが大きすぎて、その先に有る音楽の楽しみを享受し切れていないのではないかという事です。
ラトルなんかは恣意的ともいわれる解釈をしてみたり、古楽風の演奏を取り入れてみたり、ジャズに接近してみたりしているわけですが、仕方が無い面も多いのですが、そのラトルが色々な試みをする前提として持っている立脚点を手に入れるのがやっとといった感じを受けました。大野の才能は場合によってはラトルを上回る物だと思うのですが、現状では「ヨーロッパ音楽を良く理解した日本人指揮者」で終わってしまう可能性も無きにしも非ずなのではないでしょうか。
大野の楽壇に於ける地位は磐石な物になりつつあります。彼は凄まじい情熱を持っている人だと思うのですが、勝手なことを言ってしまえば、常識を排して自らの音楽に従うことで、そのエネルギーを自らの地位を切り崩す焔として使って欲しいです。
大野ならそういう方向性を取ってなお、クラシック音楽界でかえって自らの地位を高める結果を得られると思うからです。
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