行って参りました。
もうちょっと前に行くつもりだったんですが、その時は雑技団の大道芸を見ていたら、時間が経ってしまい、花見に切り替えました(笑)それにしても雑技団の方々のパフォーマンスは圧倒的です。これを凌駕するのは大変です。ころころしたのを重ねるローリングバランスが、神業。組み体操みたいなのは組み方を把握するのも大変で、その姿は光琳の梅の枝を思わせます。巧みに鞭を操る青年が、運動神経が良さそうでした。
後で聞いたら丁度その頃、美智子さんが阿修羅展に来ていたということでビックリ。運が良いのか悪いのかは分かりません(笑)七分も見ていたそうで、好きですねぇ(同好)
日を改めて、当日は、いきなり50分待ちだったのでビックリしました。ダ・ヴィンチの受胎告知の時以来の混雑といえましょう。
最初のほうにあったのは、器の破片とかよくわからない金具で、一瞬、真面目に観るのもあれかな、と思ったのですが、道元が「乱雑な中に込められた内容が分からない人は、形の整ったものをみても、結局の所は分からない」というような事を言っていたのを思い出し、再び集中。銀の飾りの造りは極めて繊細ですし、器の破片も纏っている空気感に非凡なものを感じました(笑)
上の話は「正法眼蔵随聞記」という本の中に出てくるのですが、この本には「学道の人は先須く貧なるべし」という言葉をはじめ、「学道は先すべからく貧を学すべし。名を捨て利を捨て(略)」とかそういう言葉が何度も何度も出てきます。本当に道を求めているお坊さんは大変なものです。
興福寺は比較的裕福な寺だったと思うのですが、それでも火災もあれば、廃仏毀釈もあったとおもいますので、やはり、法燈の尊さを感じます。
次に来たのは宝石類で、科学博物館の方に来たのかと思いました(笑)ただ、実用品であるという点で、生きた宝石類で、観ていて感じるものは結構違います。
「ガラス碁石形玉」とか、下から光りを当てた展示も綺麗で、良かったです。ガラスは結構好きですねぇ。
「黒水晶」が光りを放つ黒で、中々インパクトがありました。水晶はかなり重用されている様子がありました。もし、綺麗な女性がいらっしゃったら、どの宝石が似合うのだろう、などと、ふと思うのです(照)
二寸位の「延金」は、後で使うために丸めてあるものだそうで、綺麗だし、生活が感じられます(笑)
色々な宝石があったのですが、翡翠が無かった事も印象に残りました。日本で翡翠をあまり使わなくなったのは、ちょうど興福寺ができた頃からですね。
「阿弥陀三尊像及び厨子(伝橘夫人念持仏)」はひょろひょろとした茎に支えられた蓮の花に三尊が立っていて、妙なる軽さを感じさせます。背後の古びた光輪が格好よいです。(ゆゆさまの魔法陣くらい)
「波羅門立像」が凄い作品。アバラの浮き出た老人が、膝を折り曲げ寄りかかるように、鐘を叩く所なんですが、貧相な様で居て、なんとも屈託の無い佇まいで、これを見た修行僧はやる気が出たのではないかと想像します(笑)これは本当に良い彫刻です。
次の八部衆と十大弟子の部屋は圧巻。天平時代の仏像がこんなに沢山(泣)
「目けん連立像」はすっぱそうな感じの、複雑な表情が何事か。目けん連は、起伏のある人生を送った人のようです。
衣紋の襞について「複雑な心境を暗示するかのようである」とかかれていましたが、この表現の中にも複雑なものを感じます(笑)
「須菩提立像」は若々しくて、肌の艶が良い仏像。「富楼那立像」は右を前に、やや捻った格好が、枯れた中にも力強かったです。
「沙羯羅立像」は蛇がにょろにょろと巻き付く中に、ふくよかに立つ若い像。
この部屋の仏像は、どれにもえもいえぬ静けさがあるのが、たまらない所です。
「阿修羅立像」は生で見ると、中々安定感のある仏像。もとは髭の生えたおじさん顔であることが知られていて、先入観ゆえか、なんとなくそう見えます(笑)腰の辺りの典雅さに視線が行く仏像で、両側の顔には戦いの余韻が感じられます。
阿修羅といえば、宇野先生の文章が有名(多分)ですけど、阿修羅は戦後に流行った仏像だといいますので、あれはその流行り始める頃のものなんですよね。いち早い注目といえるのではないでしょうか。
最近宇野先生を褒めすぎで、自分でも食傷しているんですが、宇野先生は確かに耳がいいんですけど、それ以上に、良い意味で軽くて、楽しさに忠実である所が、優れている人だと思います。
宇野先生の推薦で知られる指揮者たちも、みんな力があるから放って置いても、いずれ誰かが宣揚した指揮者たちだと思うんです。でも結局宇野先生のいち早い推薦で知られている、というのはやっぱり軽くて楽しさに忠実だったからだと思います。
今クラシック界が地盤沈下を起こしているのは、一時期の鑑賞のされ方が、楽しさにしっかりと立脚していなかったからだと、僕は考えています。歯が白くスカスカになってから崩壊するようなもので、これをピシッとした歯にするためには、宇野先生の良い意味で軽くて楽しさに忠実な鑑賞態度が、次代にとって一つのヒントになると考えています。音楽の歴史を振り返っても、そういうことが言えるのではないでしょうか。
それにしても、絵は華やかですけど、仏像は精神にずしりと来る物が凄いです。思い出していても、訴えてくる充実感があります。
康慶作「四天王」は何の予備知識が無くても、魔を払ってくれるに違いない、と確信させると思われる迫力。肉厚の表現に、人の?存在が彫り抜かれていました。
「薬王菩薩立像」と「薬上菩薩立像」は共に巨大ながら、鈍重な印象がまるで無く、蓮の上の三尊像の様な軽さも感じさせる所が、不思議にも驚きの作品。普通なら威圧感になりそうなものが、慈悲の固まりに感じます。
ところで、仏教の方向から芸術について考えてみますと、お坊さんは黙って坐禅を組みますが、この時特に考えていることはありません。
禅問答では、よくわからない、通常の論理を超えた、非論理的なやり取りをしています。これはこういうことをすることによって、理屈を超えた智慧を目指しているわけで、これを非思量底といいます。
仏教ではこれをもって芸術に向かえば、見事な芸術になると考えられていて、禅僧が書や絵を描く一つの理由になっています。
思量と非思量を対置する事は、仏教では重要な概念です。盤珪さんは仏道を学ぶものの思量を叩いて、非思量を悟らせるのが、師家の仕事だと述べています。
とはいえ、例えば西洋音楽は思量の積み重ねで出来ていますので、叩くというより、その思量を使いこなせるだけの非思量を持つことが重要だと考えています。もっといえば、思量そのものを非思量とすることが大切で、こういったものを養うのが、日本らしい音楽教育の在り方として、あり得るのではないかと思っています。
伊福部昭さんは、作曲した時にコードが何かというのは、あとで分析した結果でなくてはいけない、ということを仰っていましたが、東洋哲学に詳しい氏らしい考えで、思量そのものを非思量とした時の、一つの結果だと思います。
そして、伊福部さんの様に知識を得つつも無用な規則に縛られないで、自由にすることで、こういう作曲がはじめて可能になるのだと思います。
いきなり戻りますと、そういう見方をするのは本当はよくないのかもしれませんが、今回の展覧会の仏像からは、この非思量底を強く感じさせる物が多かったです。とても清涼なものばかりでした。
実は前々から、いずれ興福寺に行きたいな、としっかりと思っていたのですが、今まで実現せず、あちらからやって来て頂けることになりました(笑)出てくるもの出てくるものが、全て、究極的と言えそうな古典性を纏っていて、深い深い滋養になる展覧会でした。
企画に携わられた方々は、ありがとうございました(^_^)
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