行って参りました。
「東大寺修二会(お水取り)椿の造り花」はやはり、一輪ほどのあたたかさ、というと平凡ですけど、そういうシンプルな美しさがある造花。
「紫紙金字金光明最勝王経巻第三」の紙質も、濃い茶色が有機的で、記憶に残りました。
それにしても、紙といえば包むものですけど、司馬遼太郎さんは「「文化とは、それに包まれて安らぐもの。あるいは楽しいもの」と、考えたい」と「風塵抄二」(文庫版172ページ)で定義していると読めると思うんですが、何かしらの文化に深く関わっている人には、何か違和感を感じる定義だと思います。
この違和感は何だろう、と隨分昔に思ったんですが、包まれてみんなが安らぐ、というのはいわば文化の横の要素で、文化の垂直性、つまり文化に親しむことで人として洗練されていく、というようなことが含まれていない定義なんですね。
これは何故かというと、司馬遼太郎という人は、人が文化と向かい合うことで成長していくということを認めなかった、文化の垂直性を認めなかった人だったからだと思うんです。
例えば書道の事を語るんですが、清の歴代皇帝と孫文の書が掛けてあったのだそうですが、一番下手だったのは孫文の字だった、書道とはそういう文化だ、ということをいうんです。つまり形をこなせば上手く見えるんだ、ということですね。
これが例えば魯山人でしたら―――彼は書というものには人格が宿ると、強く信じていた人ですから―――もう少し違う見方をすると思うんです。流石孫文だ、表面は整っていないけれども、字の奥に誠を感じる、と言うかどうかは分かりませんけれども、少なくともそういう見方をしていくと思うんです。
書道をなさっているプロの方には、後者の考え方をされる方が多いと思うんです。書に上達することによって自分を高めて行く、自分を高めることによって書を高める。司馬遼太郎さんという方は、余りこういうことに興味を持たなかった人だと思うんです。
また幕末には剣とか禅とか神仏儒習合的なことをやっている登場人物が多く現れますが、基本的にそこで精神がどう養われたかということは問題にしない。孟子の革命思想が影響を与えたとか、そういう話はしますが、精神の涵養ということについていえば、殆ど語っていないと思います。
老子と禅の話も、会った僧侶に感心しなかったという体験は大きかったでしょうけれど、文化の垂直性が(一通り読むという位の範囲では)老子にはあまり含まれていなかった、禅にはそういう思想がふんだんに含まれていた、ということが好悪を分ける大きな理由としてあったと思うんです。
司馬遼太郎ファンには文化オンチが多い、と松岡正剛さんが指摘されていましたけど、それは至極当然なことで、司馬遼太郎さんは文化というものに人格を洗練させて行く力を認めていなかった、文化をいうものを、ある意味根本の所で認めていなかったと思うんです。
もっといえば、そういう考えを嫌っていたのではないか、とさえ感じるのです。
そしてそれは多分、戦前・戦中に文化が精神主義的に歪められていたことと関係があるんだと思うんです。反省が行き過ぎてしまった、という感じではないでしょうか。
こういう思想を持った人の本がとても売れることで、社会にどういう影響を与えたかといえば、日本人から文化というものを、根本的に剥奪する役割を果たした。道の思想みたいなのを薄れさせた、とも言えるかもしれません。
司馬遼太郎さんは、どういう人が優れた人かという話で、魂がきれいな人ですね、と言っていましたが(司馬遼太郎が語る日本 未公開公演録愛蔵版146ページ)、これは文化的な洗練を経る。もしくは文化を通じてそういうものを求めて行くという態度が無いと、なかなか得難いものだと思います。
そして文化的に洗練されて行く、という思想がなくなるとどうなるかといえば、金と権力といった所に、より、よりどころを求めて行く、という風になっていく。実際そういう人が日本に増えて行き、それが頂点に達したのが、あの、非文化的なバブルという現象で、司馬遼太郎さんはそこに至る日本人の精神的な素地を用意した人の一人といえると思います。
司馬遼太郎さんの仕事にはプラス面とマイナス面があったと思うのですが、マイナスかどうかも分かりませんけど、マイナスっぽい仕事を指摘するとすれば、このことが一番大きいことだと思います。
とはいえ、司馬遼太郎さんはご本人の意識の中では、バブルに突き進む日本に危機感を抱いていました。財界の人とは対談しない、という方針を曲げてまで、松下幸之助と対談をして、土地投機に懸念を発したことなど、心を打たれますが、日本の精神的な流れということでいえば、このようなことが言えるのではないかと思います。
また「包まれて安らぐもの」という文化の定義もなかなか面白くて、私は「スラムドッグ$ミリオネア」を観た時に、この映画は貧しさを金銭的な部分以上に、文化を描かないことで表現しているな、と感じました。(一度だけ、紛争の象徴としてラーマ神が出てくる。それはこの映画がグローバリズムの視点から描かれているからだと思います)
グローバリズムなんていう思想も、その思想がもたらす経済的な状況以上に、内包する非文化性が貧しさをもたらしているな、と思ったのですが、こういった見方が出来るのは、司馬遼太郎さんの定義の賜物だ、と個人的に感謝しています。
「しばしば国家は文化的総称でもある」(風塵抄二 文庫版173ページ)と書いてあるのを見つけたんですが、こういうのも良い言葉ですよね。
ということで、こういう遺産を踏まえつつも、白川静さんが強調されていた、東洋の理念の回復ですとか、そこに内包される人を洗練させる文化を、歪ませることも無ければ忘れ去ることも無く、正しく合理的な形で日本全体に取り戻す。そうすることによって、戦後、そして失われた二十年、といった時代区分から初めて歩を進めることが出来ると思うのです。
イサム・ノグチの「2mのあかり」は巨大なぼんぼりといった感じで、なかなかの存在感。日本の文化はコンパクトさと切り離せない感じでもありますけど、巨大化すると意外と面白いものは多いかもしれません?
この展覧会で一番面白かったのは、最後の色々な和紙が触れるコーナーで、ここで延々と触っていました(笑)色々な分野の物が網羅されていて、面白かったです。
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