券を頂いたので、行って参りました。
岡本太郎といえば、その芸術の圧倒的な力ですが、毎度司馬遼太郎さんは北方四島の問題にも言及していて、学術的な論議に任せるべきだ、というような事をいっていたんですよね。
一方で西澤潤一さんなんですけれども、ネットで検索してみたら長いインタビューがあったので、日本最高峰の科学者から何が聞けるのかと思ったら、千島列島のことを強く話されているんですよね(^_^;)
パワーポリティクスというと物騒になってしまいますけれど、やはり国同士の交渉において、国民がその事柄にどれだけの関心・情熱を持っているか、という事はとても重要なことだと思います。そういうことでいいますと、北方四島については例えば、ドラマの中で重要な複線としてこの問題を絡めて行くとか、国の中にそういう取り組みが以前は存在したというんですよね。最近の北方四島に関する外交の退潮は、こうした努力を怠ったつけでもあるのではないかと思います。こういう気分を盛り上げていくことが、国際的なしのぎ合いの中で国を守る、ということだと思うのです。
今回も理想的な方向性というのは、冷静な論議の中で深められていくと思うのですが、その実現には圧倒的な力の厚みが必要だと思うのです。言論は爆発だといいますか、言論はパワーだ、といいたい。
それをネットの中で築いて行くのがまず重要だと思いますので、ゴジラを手本n(以下略
まず原発に纏わる癒着は全て清算しなければなりません。城南信用金庫の宣言もありましたけど、クリーンエネルギーに大胆にシフトしていく方向性というのも、間違いないだろうと思います。津波の前から原発は戦艦大和的な時代遅れの重厚長大産業であると聞いていましたし、私もそう考えていました。普通に考えてコストも非常にかかります。
なにより日本は原爆被害国であるという事を忘れてはなりません。本来なら原発は拒否すべきでもあったのに、時代遅れになってもまだ使い続けている・・・。
これはどういうことなのか。普通の日本人の感情としておかしいのではないか。こういう所を大切にするのが、実はとても大事なことなのではないでしょうか。
岡本太郎は昔から気になっていた存在で、少し伊福部昭さんと被る所があるんですよね。
非常に原初的なものが好きなんですが、伊福部昭は北海道で岡本太郎は沖縄。伊福部は東欧で岡本はフランス。音楽と美術。といった感じで対照的でもありますし、むしろ補完的といって良いのかどうなのか――――。
作品的にもどう観ても凡人の作品ではないですが、心地良くないのは当然として、何か馴染めないものを感じていたんですよね。
今回も行くのを迷った位だったんですが、勇躍竹橋へ。
最初に書いてあったのは、芸術は爆発だ!!という言葉に対する解釈で、そもそも破壊的な意味は込められていないのだそうです。精神を宇宙に解放するような意味らしく、太郎の真っ直ぐな生き方が表れていると書かれていたので、東洋でいう「忠」に近い概念なのではないかと思いました。
「第3章:「わび・さび」との対決 日本再発見」のコーナーに書かれていましたけど、むやみやたらな破壊者であるという訳ではなく、むしろ創造的に伝統を受け継ごうとしていたそうで、これもその一つといえるのかもしれません。
「プロローグ:ノン!」ではオブジェが置かれていたんですが、円谷プロなどで見たことがあるような形もちらほら・・・。20世紀少年なんかにも似たようなデザインが結構出てきますが、時代の芸術の一つの原型になっていたのでしょうね。
最初に感銘を受けたのは「装える戦士」で、密教を主題にした作品。梵字っぽいモチーフに纏わりつく炎が、火焔宝珠を思わせる情熱を発していて、創造的な密教美術として最高峰だと思いました。岡本太郎的なくせは強烈ですが。
縄文土器に続いて、日本各地の祭りにも興味があったらしく、シアターでその超貴重映像が。1957年の秋田のなまはげ祭りは、やはり人間とは思えないような唸り声、動きが素晴らしく、女風呂に乱入するようなやわさとは隔世といわざるを得ません。解ってみていてもなんなのかと思うほどの迫力で、生まれてはじめての異界との邂逅といった感じなのでしょうか。
1966年の沖縄のイザイホーも素晴らしく、なにもない御嶽に神が降りてくるのが良いんだ、との岡本のコメントがありましたが、実に高雅です。
女性でもこういう自然な清らかさがある人は、素晴らしいです。
縄文土器は太郎の批評によって見出された面があるのだとか。
ここで「太陽の塔」のメイキング映像が入ったんですけど、なんでもただの作品提供のような感じだったのが、岡本太郎が勝手に作品の規模を巨大化したらしく、屋根を取り払ってあのような形になったのだそうです。
企画を説明する席で、単細胞にならなくてはいけない!、とか、人間としての自覚があるからいけないんだ!、と絶叫。命の根源に帰らなくてはいけない!、という言葉でやっと周囲の人がやや納得した表情に。
やはり路線的には伊福部昭さんに似てはいます。
それにしても仕事のパートナーには万博であるとか丹下健三であるとか、原初路線と程遠そうな組み合わせが多いですが、時代のバランス感覚ということなのでしょうか。
「燃える人」は水爆実験を批判したらしく、解りやすさを避けるため、悲劇的ではなく、太郎作品屈指の明るさがあります、、、がやはり不気味な感じは致しますよね。
「殺すな」はベ平連のワシントン・ポストへの意見広告に提供した文字らしく、触れば切れそうなデザイン。
岡本の殺すなはいわゆる近代的なヒューマニズムを基調としているものだとは思えず、恐らくは原初的な生命の鼓動の様なものを背景にしているはずで、それにふさわしい特有の迫力が宿っていると思います。
現在渋谷で公開されているものの下絵の「明日の神話」は、相変わらずの強烈な妖気を放つ作品で、所々に火祭りをしているらしき人も。
この人の作品には白いふにゅふにゅが頻出するのですが、生命の根源ということでいえば、神霊廟の神霊に近い感じかもしれません。
子供の表現が好きだったらしく「子どもの樹」はこれ自体も怪しくも微笑ましい作品。
バラエティにも出演していた、とのことでタモリと絡んだ映像が。タモリ倶楽部も上手さを拒否している感じなので、岡本太郎の影響の延長線上にあるんですかね?!
噂のピアノは流石に玄人はだしで、上手いですね。
「坐ることを拒否する椅子」は一つを除いてやはり坐りにくく、縄文人から継承したと思われる?実用を離れた美を見せ付けます。
「第7章:岡本太郎との対決」は眼が描かれた作品の特集。「眼は存在が宇宙と合体する穴だ」とのことで、これは融即的な世界観を表現した言葉でしょう。白川静さんっぽいですけど、民族学を学んでいますから、当然なのでしょうか。
最後は語録を壁に張り出した空間。
派手な言葉が並んでいるようですが、「何でもないことに筋を通すことの方が、カッコいい冒険よりもはるかに難しい。」とのことで、地味な面もあります。
岡本太郎を昔から観ていて感じるのは、人柄が非常に安定していることで、だからこそぶっとんだその世界に安心して浸れるという面があります。
「夜」では因習に逆らう自分と思われる人を描いていますが、意外にも手弱女の姿で、強さではなく柔弱な勁さに太郎の真骨頂があるのではないかと思います。
このコーナーには一人一つという事で、開いてのお楽しみの「太郎のことば」という紙が。
今開いてみたら「下手なら、むしろ下手こそいいじゃないか。」とのことで、座右の銘といいますか、承知しています(笑)
最初はなかなか馴染まなかった毒も、だんだん慣れて来て、原始林の様なその作品群の中をしばしふらふらと。
一瞬ふっと、本当にピカソを越えたのではないか、と頭の中によぎったのですが、そういう尺度がすぐにせせこましく感じるほど、雄大な作品群でした。
ありがとうございました。生誕百年、おめでとうございます!!
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