東京藝術大学大学美術館 日中国交正常化40周年記念 特別展「草原の王朝 契丹 ―美しき3人のプリンセス―」 その1

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種まきジャーナルが終わってしまいましたけど、リスナーから寄せられた、今まで情報化社会に生きていたと思ったけどそれは違った、選別された情報に触れさせられていただけだった、というのがやはり印象的で、そういった中から漏れていたからこそ、こういった事を報道できる番組だったといえるでしょう。

9月23日のサンデーモーニングでは、中国大使死去のニュースで、今度は凄く期待された大使だったと、と岸井論説委員が触れましたが、前回の大使は外務省出身でないために十全なサポートを受けられなかったと聞きました。これはそのサボタージュを表面的にそのまま受け取った評論で、本来はポスト争いを巡る不毛な官のあり方に苦言を呈するべきだと思います。

続いて寺島実郎がロムニーとオバマは機会の平等を求めるロムニーと結果の平等を求めるオバマの戦いだと言っていましたけど、本当に機会の平等を求めるのなら、たとえば町山さんが良く取材しているようなマフィアの村のようなものは徹底的に改善されねばならず、とてもそういったところに手をつけようとしている人には思えません。ああいう村はFBIなどの力をもってして改善できないとは思わず、主に所得などを低く押さえつける目的で、法の目をかいくぐった人種差別として残されているんだと思うんですよね。

本来ならこういったものもオバマが改善させなければならなかった。もし本当に機会の平等を求めるのならオバマの本来のやり方に立ち返るしかないと思うんですよね。

9月19日のテレ朝の午後5時40分ごろのニュースでは風力発電の可能性をやっていて良かったのですが、「バランス」をとった報道で、田舎から送電を構築するのが大変で1キロあたり5000万円の試算がある、と紹介していましたが、田舎から引っ張るのは原発も同じでしょう。

それと火力で調節しなくてはいけないので大変だ、ということもやっていたのですが、発電量が調整できない原発も似たようなものであり、結局発送電分離に触れないのが不可解というか、原子力ムラのご機嫌を伺っているのでしょう。

偽装リベラルといいますか、こういう所を積極的に批判していかないと、とんでもなく低い枠組みで報道の進歩性が競われることになってしまうと思います。

9月19日の報ステではドイツの脱原発の特集をやっていて、概ね良かったのではないかと思います。ただ送電線は原発建設時もやはりお金がかかったといいますし、やり方にもよるのでデメリットとしてただ挙げるのはどうか。

しかしまた例によって三浦コメンテーターが、ドイツが倫理を優先した決断が出来るのは30年にわたる議論の歴史の積み重ねがあるから、といっていましたけど、前にも言いましたけど、決断があればいつでも出来ます。
本来は技術もあれば、国土としてのポテンシャルもあるのですが、今まででそれを封じ込めてきただけなのです。
議論による体制作りの違いということで言えば、日本には政権中枢に原子力ムラの人間が沢山居ることを指摘するべきだと思います。

古舘さんも流石に30年は待てないと突っ込んでいて、本人も認めていましたけど、事故当事国である日本はドイツより、より俊敏でドラスティックな変革が求められているといえるでしょう。

それにもし仮に、よしんば議論が必要だったとして、どれだけ今までジャーナリストとして議論喚起をやってきたのか自分に問いただすべきなのではないか。

再エネが促進される気運に対して、仕組みであるとか、人事的なものを指摘するのではなく、悪い意味で「歴史」という曖昧模糊なものを持って来て、寺島さんが良くやるように、原子力村に利益を引き込もうとしているのだと思います。コメンテーターとして最悪だと思います。

大阪では大飯を再稼動させたにもかかわらず、計画停電の張り紙が張られていたそうで、再稼動無しでも足りていて、火力を止めている状態で出すのは脅し以外の何物でもありません。張り紙を張ることを決めた人に問いただして、責任を問うべきだと思います。

テレビでは増税分はすべて社会保障に使います、との政府広報が流れされていましたけど、国土強靭化に使われるのであって、うそを簡単に流す神経が腐りきっています。しかも税金で流しているはずで、私物化の厚顔無恥もいい加減にしてもらいたいと思います。

維新の会にソフトバンクが大口の援助をしているそうですが、だとしたら筋の悪い話です。孫さんは司馬遼太郎ファンで、その出版物の推薦に米倉会長などと顔を連ねています。

この前も何かの雑誌のエッセイで、確か堺屋太一だったと思うんですけど、司馬遼太郎さんの文章を日本は江戸時代から非常に競争的(新自由主義的)だったとする論拠としてい引いていましたけど、現代では明治維新のときに「仁政」から強者の自由が解き放たれた時代になったとされています(文明国をめざして (全集 日本の歴史 13) 牧原 憲夫 (著) )。維新の会とはその名前の通りズバリといえるでしょう。

確かに江戸時代は市場経済が発達して熾烈な競争もありましたし、適塾などにみられるように学問の場などでも、激烈な競い合いがありましたが、司馬遼太郎さんの江戸時代に関する文章は幕府の仁政的な側面や地域の相互扶助に触れる事が無く、自由主義経済を強調したもので、これを元に江戸時代の競争をイメージするのはバランスを欠いていると思います。

そういった悪しき残影を追っている様な所も維新・経団連とまま共通するところがあるとおもいますが、一刻も早く方向転換して欲しいと思います。
孫さんはこの前は柳井さんのような無能で良くない感じの経営者と対談していたみたいですし、そういう面ではあまり良くないと思います。

廻りと較べると優れた経営者だと思いますけど、疑問に思う所も無きにしもあらずなんですよね。再エネ派の人でも孫さんが再エネ事業に乗り出したときに半信半疑というか、簡単に評価しない人がみられましたけど、私はその気持ちが良くわかります。

9月10日の報ステでは、自転車のナンバープレートのニュースをやっていましたけど、おそらく素麺・冷麦の基準や、もしくはレバサシ・ユッケのように(微妙な面もありますが)、東京都の天下り先を作るための規制なのではないかとの疑念が。大竹まことさんのラジオではその視点からやっていましたけど、テレビではやらず、報ステは必ずやるべきだと思います。

9月10日のモーニングバードでは沖縄のオスプレイ反対を報道していて、一見良くやっているようですが、小松アナウンサーのオスプレイなら尖閣まで一時間でいける、というコメントが聞き捨てなりません。
尖閣で中国と衝突が起こったら、アメリカは日米安保条約を破棄して中国との衝突を避けるのではないかという観測もあり、この一時間発言にはアメリカに守ってもらえるという幻想が強力に紛れ込んでいるからです。
政府の論理としては、オスプレイ受け入れの背景にはアメリカが日米安保条約で日本を守ってくれるという幻想があり、そこに対する疑問まで報道しないオスプレイ特集は政府の主張に沿った推進報道だといえると思います。

小松さんは動きが硬くてぎこちない。ユーモアはある人なのですから、リラックスしてゆるい雰囲気を発して、視聴者を巻き込めるようにすると、羽鳥さんを超えられると思います。

8月16日の朝日新聞の論説委員室では、原発事故と刑事責任は馴染むのか、と疑問を呈していますが「もし日本の国が自分で法治国家だというのであれば、自分が決めた法律を守って、1年間に1ミリシーベルト以上のところには人を住まわせてはいけない。もちろんそこに今避難している人たちを帰してはいけないということになると思います」(小出裕章)というのが基本であって、ここを根本に据えて報道を行うべきだと思います。

外にも事故前に警告を無視していたことや、線量計などとんでもないことが沢山あり、そのひとつひとつで責任を取っていくことが、無責任体制を抜け出す唯一の道だと思います。

8月19日の朝日新聞には原真人編集委員の消費税増税を歓迎する記事が載っており、社会保障との一体改革であるとしていますが、何が一体なのかはなはだ不明で、ジャーナリズムとしては国土強靭化などを論じるべきだと思います。
増税すると財政赤字が解消されるというのも極めて根拠が薄弱で、財政赤字の解消は特別会計に正面から切り込み、体質を徹底的に改善した上で、まずは議論するべきことです。
そしてその後は、再生可能エネルギーを主軸とした新しい産業の育成で達成するべきだと思います。
この人の記事はむちゃくちゃな電波記事が多いので、余程考えがおかしいのか、何かしらの力(恐らく官僚)の影響を受けているのだと思います。

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