「福島事故の甲状腺集団線量「チェルノブイリの1/30」」(http://www.asahi.com/national/update/0527/TKY201305260335.html)と5月27日の朝日新聞の一面にのりましたが、現地調査をしていない海外の学者が推計に推計を重ねて出した数字であるといわれています。
デモなど大きく取り上げないのに、このようなあやふやな数字ばかりを一面に大きくもってい来るのは、旅行や飲み会や広告費や記者クラブ権益が効いているのではないしょうか。
5月27日の報ステでは母子が餓死した事件についてやっていましたけど、恵村コメンテーターが生活保護を受けるのは恥ずかしい、といったような社会の空気があったのではないかと指摘。
続報によると申請に来ていたそうで、にべも無く追い返されたのだろうと思いますが、空気ということで言えば、その空気を作り出したのは、芸能人叩きに始まる、全体の0.5パーセントである不正受給を全体の問題であるかのように錯覚させるテレビの一連の報道であって、さらにそれと連携するかのように、生活保護の切り下げや扶養義務の強化が厚生労働省によって打ち出されたことも見逃せません。
日本の大手メディアと官との極めて近い距離を思うとき不審に思わざるを得ませんし、たとえメディア単独だとしても、こういった時に振り返る言葉は必要です。
また、扶養義務とか強化するとどうなるかというと、ますます一般人は家庭内が荒らされて受けにくくなり、そういう風に親戚から白い目で見られても平気なのはその筋の人ということになるでしょう。
書類を整えて提出しろというのも同じで、路上にいる人などは受けにくくなる一方で、貧困ビジネスの人達などはそういった書類をきちん整えるだろうと思います。
自民党政権になってから、イラクでの高遠さんの事件などを叩いていた、「自己責任」のおかしな社会的な空気が大分戻ってきたなと思います。震災も関係しているでしょうけど。
それで結局困るのは社会そのものであると思います。
玉川さんのそもそも総研では、たんぽぽ特集以来の生態系異常特集で、昆虫に対する福島での放射能の影響の研究をやっていましたけど、異常がたくさん起きている、と共に、研究者の自己規制が働いて研究する人が琉球大学と北海道大学の二人しかいないとの事。
関わって何か迫害されて酷い目にあったら自己責任、という時代だからでしょう。それにしてもまったく気概が感じられないのが異常ですが。
環境省は管轄ではないという事を言って、動かないのだとの事。
東北大・東大は何をやっているんだと玉川さんは言っていましたけど、まさにその通りだと思います。
このことを専門に調べる大きな国の機関があってしかるべきですが、現在の政権は事故に責任があり、原発に利権がある人が非常が多いので、行われることはなさそうです。結局は日本国民が選んだ選択肢ともいえるでしょう。
メディア自体にもこういった自己規制が働いているのは、必定でしょう。玉川さん自身も、今回はいつもより雰囲気に気合が入っていたようなところがあって、そういったものを振り払うのに必要だったのではないかと推察しています。
「とべさる」でアーサーさんは東海村の事故の話をされていて、原発事故前の感覚だったらとんでもない量の放射性物質が漏れている。みんな慣れてしまったのではないか、ということを仰っていましたけど、それはあるのでしょう。法律で定められた1msvの被曝量を上回っていますからね。
もう一つはいくら声を上げても誰も責任を取りもしなければ組織の性格も変わらない、ということに対する慣れがあるのではないかでしょうか。まったくなんとかならないものか。
やっぱり検察が原子力ムラ化しているのが大きいんだと思うんですよね。
5月30日のモーニングバードではIOC委員は組織に女性がどれだけ入っているかみている、といっていましたけど、IOC自体はどうなのでしょうか。
それにしてもレスリングは最終選考に残りましたが、報道などで空手に対する思い入れの声をまったく聞かないことには驚くばかりです。テコンドーとは雲泥の差と言えるでしょう。
今回主に空手を五輪競技化したいのはアメリカ勢なんですかね。競技化すればやはり優勝して得られる金銭なども隨分違ってくるでしょうからね。途中までずっと2位だったみたいですが、最期に他の票が違う競技に流れて弾かれてしまって、惜しかったですね。
昔から空手の五輪競技化は言われているのですが、組織の乱立が壁になっているといわれています。しかしそれは、逆にいうと空手を極めて行く方法論の豊かさであるともいえましょう。
また空手にとって競技の部分はあくまで武道としての空手の一部分である、というのも、根本を忠実に守るなら、重要なことです。また、あんまり競技化を強めると、やはり倫理面がさらに難しくなります。柔道のように無残なことになりかねません。今の空手も事件の報道とかたまに聞きますのでどれほどなのか分かりませんが。
会派としてそういった節操や独自色を守りたい、というのもあるし、オリンピック化するとそういった会派の組織の人達の主導権が、かつて講道館がそうであったように薄れてしまう、というのもあるでしょう。
そこら辺は会派の豊かさも日本の武道精神への執着も特にないテコンドーは、国を挙げて五輪競技になるに向けて躊躇が無かったんだろうなと思います。
日本の空手は五輪化しないでこういった感じでちょぼちょぼいくのが日本らしいのかなぁ、とも思います。難しいですが。
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