国立西洋美術館 大英博物館 古代ギリシャ展 -究極の身体、完全なる美 その17

#その他芸術、アート

「踊り子の「グロテスク」な小像」は、こういった演劇などが障害者の唯一の生きる道だったらしく、それを象っています。

江戸時代はそれなりに障害者の仕事があったのが良い所で、近世の社会としては良くやっていたのではないかと思います。綱吉が良く、そういうのを整えたようです。

「古着などの特殊な商品を扱う場合、商売には幕府で決められた免許が必要で、ある程度の金も納めなければならなかったが、15歳未満や50歳以上、それに身障者はこれが免除された。」(江戸めしのスゝメ (メディアファクトリー新書)永山久夫 (著) 127ページ)であるとか、これ以外にも老人であるとか母子家庭であるとか生活が困難な人を社会の中に上手く包摂しようという政治が当時の経済規模の中で豊富にあったんですよね。

ちなみに「わが国では大体、獣を殺して食べるということをせなんだんです。だから獣を殺すことが非常にこわかった。獣を殺すことがこわいような人間が、人を殺すなどということは容易なことではありません。」(白川静 文字講話Ⅱ 199ページ)なんていう文章がありましたけど、最近の評価からみる生類憐みの令は、こういう伝統的な日本の精神の法律化を試みたものだったのかもしれませんね。

もちろん命を落とした人も多かったでしょうけど、仙台四郎の様な人もコミュニティにいただろうし、柳原白蓮の最初の夫のように、何気無く社会にいたような人も多かったのではないかと思います。

フーコーを踏まえた記述でしょうけど、江戸時代には障碍を持つ人々は「「尋常でないもの」には何か特別な力、聖性があるとも見なされた。」らしいのですが、明治になると一転「ひとたび医者によって「狂者」と診断されたものは、鉄格子の部屋に厳重監護され、社会に復帰する道をほとんど閉ざされること人なっていった。」(文明国をめざして (全集 日本の歴史 13)牧原 憲夫 (著) 123、4ページ)そうです。

もちろん現代の方が障害者支援は手厚いのですが、それは石油文明などによる、富の総量が増えたことが大きく関わっていて、明治以来の障碍を個人の責任に還元する考えの弊害は障害者自立支援法の精神などに今も色濃く生きているのではないでしょうか。

また、近代日本の障碍を持たれた人の中では、明治の中村久子女史が有名で、「三世の因果」といった迷信に突き当たったとされていますけど、江戸時代以前に障碍者に対してこのような形で「三世の因果」の話を適応した例は知らないんですよね。上の聖性云々の話から言っても、無かったのではないかと思います。
三世の因果という言葉はいわば善根という言葉とセットになっていて、精進を奨励する意味で使われるんですよね。それが明治になって排除の思想と結びついて、差別の論理に転じた瞬間があったのではないかと思います。

また次の段階で、戦後の司馬遼太郎さんは「仏教は輪廻を認めない宗教です」といいはじめるのですが、前に引用しましたけど

サントリー美術館 歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎 第六展示期間
後期も、行って参りました。歌麿の「狐拳三美人」は、丸っぽいポーズの肩付きがかわいらしい図。今は正座でやっている狐拳も当時は立膝でやっていたんですねぇ。これでやってみると、土台が安定しないので、小手先の技が出しにくくなるような気がします...

中村元さんによると「生まれかわるということは真実だと思います」(仏典のことば 岩波現代文庫版18ページ)とのことで、「皆互いに父母であり兄弟であります」ということをこういう言葉で表しているようです。

宗派や理論的なことはともかく、こういった認識が日本人一般に共有されていて、お互いの友愛に寄与していたことは真実でしょう。司馬遼太郎さんの仏教における輪廻の否定は合理的でとっつきやすい様に見えて、過去の良質な精神と断絶し、書き換え、刹那主義や新自由主義的な意味での個人主義を導き出したのではないでしょうか。

江戸時代の障碍者の話といえば、井上ひさしさんの「藪原検校」ですけど、どうもあの冒頭の盲人を藩が大量に崖から落とした事件は、調べても史実が出てこないんですよねぇ。調べた限りではですが。
創作にしても江戸時代の障碍者へ向き合い方を考えた時にあんまりだと思います。

井上ひさしさんは震災後の東北の精神的支柱になっているような所がありますが、「青葉茂れる」ですとかを読むと、こんな時代もあったのか、と詠嘆したくなるほど酷いです。

最近の「元司書、図書室の3千冊を転売容疑 新潟の市立中」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130530-00000050-asahi-soci
で思い出したのは井上ひさしさんで、あの人は確か、施設の本をうっぱらったお金で東京に野球を観に行ったんですよね。猫に火をつけたり、家ではDV。映画化された「青葉茂れる」などは、現代では人権的に絶対に許されない内容。筒井康隆の差別表現の問題も擁護していました。

東北に対する差別が一つのライフワークだったと思うんですけど、差別し差別されの連鎖から抜けられなかった人だった、との思いがあります。

文化方面でも、例えば日本語を語っても、漢文・古典に冷たいような気がします。

やはり司馬遼太郎さんのお友達と言いますか、年譜を調べていても本人の証言と客観的な証言が合わない所が多いらしく、調べていくと真実ではない記述が多く出てくる可能性のある人なのではないか、と感じています。

この人の作品は最後のどんでん返しが有名ですけど、今までの話がすべておじゃんになってしまうようなものもあり、積み重ね・成熟を軽んじた戦後の文学、といってしまうと言い過ぎなのかどうか――――――。

また、井上ひさしさんといえば、無思想で何が悪いんだ、それが逆に良いんだということを言っていて、司馬遼太郎さんはイデオロギーは嘘っぱちの体系である、といっていました。

井上ひさしさんは実際は共産党を推していたりしていましたけど、イデオロギーも色々でしょうが、戦後は思想なり、東洋哲学に特徴的な心身の体系ですか。そういったものを突き詰めないことで、あっぱらぱーになってしまった感も無きにあらず。

そしてそんなことをしているうちに、むしろ戦後の日本は無思想でなければ生きづらい国になってしまったのではないかとさえ思えるのです。
そんな日本の姿が良くみえるようになったのが、やはり震災後の日本なのではないでしょうか。

小泉政権下における共産党のビラを配布したことによって捕まった事件など、象徴的だったのではないでしょうか。

被災者の東電非難の言葉をテレビでみるのは極めて稀ですし、汚染されている可能性のある食品を食べたくない、というと白い眼でみられるような事になっているのではないでしょうか。

それにしても晩年の「ボローニャ日記」は井上ひさしさんはやはり「ひょっこりひょうたん島」的な共同体に憧れがあることがよく分かる作品で、ボローニャの先進的な仕組みが紹介されているのですが、とはいっても結局、首相はベルルスコーニじゃないか、という壁を突破できないのが辛い所。もちろん仕組みに良さそうな所はたくさんあるのですが。

前にも書きましたが、ここ何年か知りませんけど、少なくとも60年。色々な分野で何か問題があるたびに、各界の学者・有識者は「それは西洋の制度を輸入したけど、エートスを輸入しなかったからだ」と言い続けてきました。しかしそれで果たして、問題は解決してきたでしょうか。よしんば西洋のエートスを輸入できたとしても、それでは精々、ベルルスコーニやサルコジよりやや水準が劣る程度の指導者を迎える位の事にならないでしょうか。そして実際そうなっているのではないでしょうか。

私はそのような事を言っていては、一向に事態は良くならないと思う。問題を解決するのは、民族各々が持つ主体的な創造力以外に無いと思うからです。
今回の反省でも制度改革を始め、そういう議論が必ず出てきます。もちろん良いところを取り入れるのは悪くありませんが、復興の主体となるべきはあくまで、日本人の主体的な創造力でなのです。これは国を個人に置き換えてみれば、すぐに納得されるのではないでしょうか。

その人の主体性を育むのが正しい教育の姿ではないでしょうか。
○○ちゃんの真似をしなかったからこういうことになったんだ、今度はちゃんと真似しなさい、という教育が優れているでしょうか。

そのことに納得しない限り、失敗は永遠に続くと思います。

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