サントリー美術館 「もののあはれ」と日本の美 第八展示期間 その6

#その他芸術、アート

9月21日の久米さんのラジオの「日本ポリグル」の小田兼利会長のお話は、各所で衝撃を受けている人は受けている模様。

なんでも納豆菌などで水質を浄化するシステムを開発していて、東電にも安上がりで汚染水を浄化できる、という話をもっていったら、安く上がると困るので断られたとのこと。

東電はお金をけちる一方で、利権構造の中で落としたいところ以外にはお金を落としたくないのだと思います。

多重下請けの話も、本当の意味で節約しようとしているのだとしたらありえない話ですからね。今はこの構造はどうなっているのでしょうか。解消されたという話も聞きませんが。

同じく大阪でも、道頓堀の水質を浄化できる、という話を持っていたのだが、すでにどこそこの教授のグループに頼んでして、そこに仕事がなくなると困る、ということで断られたとのこと。

水質を浄化するのが目的ではなく、仕事を作るのが目的になっているということでしょう。これを汚職といわずして何を汚職というのでしょうか。

この人はアフリカの水質浄化などにも携わっていて、企業として利潤を追求していたら、いつの間にかいい人になってしまっていたとのこと。企業として回らないと、本当に社会で役に立つことはできない、ということで、そういう部分も非常にしっかりしている人ですよね。

9月22日のサンデーモーニングは豊田英二さんと山内博さんの死にあわあせて、風を読むでものづくりを特集。

特集自体はよくある感じの内容でしたが、関口宏さんがぼそっと、次代の産業として廃炉技術に触れた部分は良かったと思います。

二人ともいろいろな話は(実業家としてあるものだとは言いません)聞きますが、日本の経済を支えてきた二人といってよいでしょう。

幼稚園でしっかり作業をする子とサボる子を分けて、しっかり作業をする子だけを残したら、また同じ割合だけサボる子が出た、という実験がありました。サボっているというと違いますけど、大きな産業人が亡くなったということでいえば、こういう人たちが亡くなっていくことで、また違う人たちにスイッチが入っていくようであればよいなと思います。

9月21日あたりのラジオでカンニングの竹山さんが、体罰について発言していて、自分は体罰を受けたが教師とは仲良くやっている、酒を酌み交わす仲だ、ということを言っていましたが、嫌な人も圧倒的に多いので、このような場でそのようなことを言うべきではありません。

自分が受けた仕打ちには意味があった、と合理化してしまっているのではないでしょうか。

9月21日のニュースキャスターで齋藤孝さんは静岡の「全国学力テスト:静岡知事、上位86校の校長名公表 「責任の所在を明確化」」(http://mainichi.jp/feature/news/20130921ddm041100018000c.html)のニュースについて、この政策の善悪についてはコメントせず、教育には緊張感が必要だ、秋田など成績に良いところに学ぶべきだ、とコメント。無言の肯定といえるでしょう。

これの問題は、小学校には、障碍者との中間のようなボーダーの子がかなりいる、ということです。

順位で校長の価値が決まってしまうとすれば、そういう人は来るな、というようなことになってしまうのです。現に試験を受けさせないといったそれに近い事件はすでに起きています。

みんな健常な子であるかのように思っているような前提がすでに教育者としてはあってはならない感覚だといえます。齋藤孝さんのコメントを聞いているとそのように考えているとしか思えません。

また小学校で学ぶものを学力に局限してしまってよいのかという問題も見逃せません。

他をそぎ落とせば学力は上がる可能性があります。果たしてそれでよいのか。私は良くないと思う。ましては小学校なのです。

齋藤孝さんのそれは、悪い意味で極めて楽観的な、ずさんな、新自由主義的な教育観で、非常に良くないと思います。

そもそも、原発に触れないことを恥ずかしいと思うくらいのモラルも持っていない齋藤さんに、教育を語る資格があるとは思いません。

それにしても、この知事は確か、学歴社会はそもそもおかしいので公表しても問題ない、ということを言っていたと思うのですが、この記事をみるとそういう感覚はまるでみられませんね。

諸葛孔明はあの厳しい三国鼎立の時代にあっても、建前と本音を一致させることに心を砕いた、と讃えられています。ましては平時の政治家が心にもないことを言うべきではありません。諸葛孔明は無理にしても、日本の政治家全体がそれを目指す姿勢くらいは見せても良いのではないでしょうか。

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