行って参りました。
かなり人が多くて、慶賀の至り。
白隠は言わずもがな、臨済宗中興の祖といわれる名僧で、万余の大量の作品を残したとのこと。展覧会中なかば忘れていましたが、大量の著作もあり、生前はそれを自ら提唱していたとのこと。普通禅僧の語録は亡くなってから出版されるものなのですが、生前に出版してしかもそれを自ら講義するのは異例で、余程表現意欲が強かったのだろうとカタログの解説。
冒頭の「隻履達磨」に良く特徴が表れていますけど、霊気漂うな迫力が並大抵ではなく、その中心となっているのは禅僧としての白隠の胆力でしょう。
日本では切腹があったり、武家政権に一貫して重視されてきた禅も、気功的な視点から言えばひたすら丹田呼吸をしているものだともいえます。勝海舟の残された談話などを読むと、いかに江戸時代の人が胆力を重視して人を観ていたかが良く分かります。
そんな日本の歴史上の中でも一番胆力があった人は誰かと聞かれたときに白隠をあげる人はかなり多いのではないかと思います。
実際にそれは作品に良く表れていて、会場を一瞥しただけで肚がべこべこ反応するようなレヴェルで、観ている間中作品と肚で相撲を取っているような感覚がずっと続きました。これはカタログの写真ではほとんど起らない感覚で、実物と印刷で差がある絵師の一人といえましょう。機会があったら是非みて貰いたいと思います。
「2出山釈迦」は確信を感じさせる筆勢が素晴らしく「3出山釈迦」など、仏像は指が上を向いているものが多いのですが、白隠の禅画は逆に地面をしっかりと掴んでいるものが多いのが特徴。「地蔵菩薩」であるとか、足裏が肉厚なのも多い表現です。
「観音十六羅漢」は62歳の若書きらしく、繊細で高雅な印象。晩年に作品を量産した白隠はこの頃が若描きと位地付けられているとのこと。
「6蓮池観音」は暗闇に浮かぶ蓮に静謐な空気感があります。
「観音」は閻魔様の役を観音にやらせている絵で「南無地獄大菩薩」では下に付くものに帰依を表す南無に地獄をつけています。「地獄も極楽も一体であるという対極主義」と解説では説明していて、「人は死ぬことさえ忘れなければ、大した過ちも無かろう」(良寛和尚逸話選 156ページ)とか「(死ぬことを考えると苦しくてたまらない)心こそ、学道の根本なのだ」(盤珪禅師逸話選 214ページ)といったように、近い時代の禅僧も同じような事を言っている通り、伝統的に死とか地獄が仏教にとっては非常に大切だということでしょう。ごん太の線からが醸す胆力が半端ではありません。白隠さんの絵は独学であるとの解説。
「地獄極楽変相図」は説法用に仏教世界を描いたものだそうで、中心にいるのは閻魔。その上には釈迦。普賢・文珠がいます。十一面観音を絵画化したような状態で、白隠の曼荼羅のような気もします。他の僧侶と比べて白隠にとって地獄とか閻魔様というは大きな意味を持っていたのでしょう。
一見四水という喩えがあって(余談ですけど、この言葉は西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」と意味が寸毫違わず同じだと思うんですよね。)、同じ水でも飲む水になったり魚が泳ぐ水になったりと、見方によって性質が違うという意味ですが、仏教にも同じことがいえて、名僧の人達でも仏教に求めるものや出家動機などがかなり異なるんですよね。
例えば盤珪さんは「明徳とは何か」と寺小屋で言ったらそういうのは禅僧に聞いてくれ、といわれて出家したというエピソードがありますが、求道的な人だったと思います。
仙厓さんですとかは家が貧乏で寺に出されたらしく、精進していたらいつの間にか超名僧になってしまった、という感じだったようで、禅以外にも山に登ったり博物学に手を出したり、手広い趣味がある所に必ずしも自分で仏道を志した人ではない名残があるような気がします。もちろん白隠のいう「動中の工夫」的に仏教的にそれらの趣味が貫かれていることはいうまでもありませんが。
白隠はというと、子供の頃に地獄の話を聞かされて恐ろしく感じたというのが原点らしく、どうも出家の原点に、死への恐怖、というのが強くあるみたいなんですよね。
作品を観ていてもそれは感じることで、どっしりとした迫力の中に、どこかひんやりとした剃刀のような感触を感じることがあります。これは白隠の死への恐怖のようなものが作品に移り込んでいるのではないかと感じます。そういったものと白隠が培った禅的な気迫の衝突が白隠画のひとつの見所といえるでしょう。
そういう意味では人として、例えば盤珪さんより、むしろマーラーなどに近い気質であるとも括れると思います。個人的にはマーラーよりずっと上だと思いますが。ピカソやルオーと比較されているのもそういう意味では、偶然ではないのかもしれません。
白隠さんは盤珪さんの不生禅を批判していたようですが、盤珪さん派の私としては白隠という人は少し自分の外側にいるというか、そういう感覚が仏教に興味を持った頃からなんとなくあります。
「18半身達磨」は35歳の時の作品らしく、美麗な達磨。だんだん省略されるのは仙厓さんと同じで、芭蕉とかピカソも同じで大体そうなのでしょう。
仙厓さんは一番若いときの作品は48歳のものだそうで、意外と遅いです。そんな事をやっていると雪舟のような画僧になってしまう、といわれて禅僧としての矜持のあった仙厓さんは憤慨したというエピソードがありますが、仙厓さんの技術はまさにプロで、技術的に白隠を大きく上回っているといって良いでしょう。
「21半身達磨」は白隠の巨大作品特有の霊気漂うもので、ドライアイスが敷き詰められている所に得体の知れない巨大なものが突き出てくる印象。やはりこれは実物ではないと雰囲気が出ません。
ピカソの絵も訴えかける力が強い絵ですが、やはり少しグロテスク路線ではあると思うんですよね。いわゆるエロ・グロ・ナンセンスは人に強い刺激を与えますが、そうではなく、主に健康的な刺激でピカソ級の感興を呼び起こしてくれる絵というのは凄いと思います。
山本發次郎という人が、ピカソやルオーがわが国の白隠をみたらどんなに驚嘆するだろうか、といったそうなのですが、画家としては文句なしにピカソ級で、ほとんど省みられない(カタログに扱いが悪いとの記述が)マイナーな画家にこのレヴェルの人がいる日本美術の異様な水準には瞠目するべきものがあると思います。
この展覧会は非常に英訳が充実していて、世界に売り出す意欲が満々です。
同じく「15半身達磨」は代表作で、関東の展覧会に来るのは今回がはじめてであるとのこと。
「24隻履達磨」は絶筆に近い絵らしく、薄墨だけで辛うじて完成させています。精神力だけで描いている感じが良く伝わってきます。
しかし隻履が一発変換できるのは、うちの辞書は便利ですね。
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