(文芸時評)西洋への卑屈

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「(文芸時評)西洋への卑屈」(http://www.asahi.com/articles/ASG9N5RSVG9NULZU00C.html)は笑える論考。

良い意味で笑えるところが、片山さんの文章の美徳なんですよね。

レコ芸の連載の最初の頃から読んでいた私はそう思います。

これは片山さんが良い意味でオタクで屈託がないから。やっぱり邪心がある文章というのは面白くないですし、興醒めなものなのです。

あとやはり、このように西洋と日本という題材が多いのは、クラシック界隈の人の特徴でしょう。このことについては常に中心に置いて何事も考えざるを得ないんですよね。

紹介されている「田中慎弥の「宰相A」」は片山さんは直接的な表現を避けていますけど、極端な設定を取ることで文学という間接的になりがちな媒体の弱さを補って、現代の日本をそのまま描いたものでしょう。

「クライマックスにもAの演説が響く。「曖昧(あいまい)や陰影、朦朧(もうろう)、余白、枯淡、物の哀れ、それに伴う未成熟な情緒、これら旧日本の病理を完全に克服」すべし。」

という文中の引用は、これらの価値観が欧米の支配システムの中に組み込まれていることを書いたものでしょう。

いわゆるマッカーサーの12歳発言と結び付けられて、このような芸術が理解され評論として再生産されてきたことを示しています。

そういう意味で、辻惟雄さんの「奇想」というのはこう言った概念をひっくりかえす面白い試みだったんだと思うんです。

私もいろいろ観に行きましたけど、たとえば日本の代表的な画家である葛飾北斎を取ってみても、エネルギーが画幅にひしめいていて、いわゆる枯淡とは程遠いです。

ただ、戦前の画家が無視していただけだったんですね。

しかし、もしかしたらこれも、欧米のなんでも表面に表現した華々しい絵がいいんだ、という価値観を受け継いだ上での日本美術の切り取り方だったかもしれない。

伊福部昭の守護神である片山さんの日光東照宮などをクローズアップする、日本文化の中の派手なものを取り上げる評論の部分も、そうともいえないこともない。

私はそもそも、わびさびとか幽玄といったものに、非常に高い価値が含まれているということを強調したいです。

伝統的にもそれは才能のある人が鍛錬して至ものであって、軍部であったり戦前の普通の市民が体現している、という前提で議論を進めるのがそもそも間違ってます。(やっぱりここでも明治は近世の否定であるという視点が大切です。)

北斎や伊福部昭にも、表面は派手でも、その精神はしっかり息づいていると私は思うのです。それはフォルムを超えたものなのです。

西洋に引き付けて理解するのであれば、紳士の毅然とした奥ゆかしさのさらに向こう側に突きぬけたものともいえるでしょう。

漱石の神経衰弱に関しては、これは従来からの定説ではないんですかね?昔から思っていましたけど、その神経衰弱は日本そのものですよね。

文章の〆は

「坂口安吾の「堕落論」の手。落ちきってこそ生まれ変われる。さあ、ゼロ地点からリセットだ。」

ときれいに着地しますが、私はいつもこのようなことを表現する時に坂口を引く人が多いのが不満です。易経には「陰極まりて陽に転ず」という言葉があり、歴史の中でずっと大事にしてきたのに、同じような意味を坂口の発想として引く必要性を感じないんですよね。やはり近世以前を歴史として切り離してしまっている感覚を感じるのです。

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