では冒頭「圧力はね、僕は無いんですよ、正直言うと」「まぁないですね。」と玉川氏。
室井さんも自分には圧力が来ないと証言。
今の圧力は従来の圧力とは違った隠微なもので、タヴーをかわしてさえいれば来ないのだと考えます。
「忖度なんです、すべては」と玉川氏。忖度できる人だけがテレビに残れるということですね。
ちなみに私はこういうのは斟酌というのだという金田一秀穂氏の説に従って斟酌と書いていますが、言葉の変化でありがちな過程として、より間接的な忖度が斟酌の位置にずり下がっているのかもしれない。
内容は「愛知トリエンナーレ」などについて。
市長は「片方の意見に乗ってる」と非難。
委員会の諮問が通ったのだから、と玉川氏。
ただやっぱりこれがヘイト作品だったらどうかということ。
周囲の声としてよくあるということで、反発を感じながらも、虐待映像なども表現の自由なのかという部分について聞く室井さん。太田さんも説明しましたけどまさにヘイトの問題ですね。
シラクさんって誰?フランスの話じゃないんですか。
いきなり違う話を始めた玉川氏に対して「私の質問答えてよ」と元に戻す室井さん。
こういう違う話を始める「テクニック」って良くみますけどみんな習ったわけでもないのに同じ様に自得するものだと思いますね。
少数の人たちに対してという定義があるからヘイトではないんじゃないかと室井さん。
欧州のイスラムヘイトなんかはその地域では大集団ながらも少数派かもしれませんけど、世界全体としては数が多いですよね。
それを引用する形でやっと答え始める玉川氏。「弱い立場ですか?ととわなければならない」とのことですけど、しかしもうその時点で「表現の自由」だから全て良いという以前の意見は吹っ飛んでいますよね。自分がおかしいと思うものは排除してよいのかということになる。
何をもって弱い、少数派とするかということは難しい問題だ。是非を別にして議論しますけど、たとえば天皇は常に多数派なのか。もしそれが海外で行われた表現だとしても少数派が多数派に抗議した意見であるといえるのか。
多少人口が少ない国は常に人口が多い国に少数派として抗議することができるのかということにもなる。
「公共の福祉に反しない限り」という憲法の条文を引用。でもそうなると今回反対している人たちもその部分を問題にしているといえてしまいますよね?
「常識ってものはあるだろう」と玉川氏。シャットアウトしていた議論が「常識」までずり下がった形だ。
時代によるそういった常識の揺らぎを確認するためにも(交付されるべきだ)と太田氏。
慰安婦像は女性の人権を守るためのものであって「作者はそういう文脈で作ったって言ってるんでしょ。」と玉川氏。
だけど基金を解散したり、専らそういう文脈で行われる表現ではないということはこれこそ常識ですよね。
作者がどう考えているのか、バックグラウンドが重要だと玉川氏。
そもそも考えというのは率直に表現されるとは保証されていないですよね。それがこの問題の根深さであって韓国の活動家の人たちのタクティックでもあるといえます。
繰り返しますけどそういうのを考えるということはすでに「表現の自由」でおしまいという以前の議論は何だったのかということになりますよね。
この作者の方は韓国の女性への人権侵害も表現しているので一方的ではないと太田氏。
両方やっているからバランスが取れているというのも表面的な見方だと私は考えます。
結局この問題は表現の自由を盾にシャットアウトできるものではなくて、たとえば「私はヘイトではないからいいと思う」という部分で語るしかないんですよ。そこからはじめなければなりません。
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