(ヤマトをたどって:11)私たちの物語は終わらない

http://www.asahi.com/articles/DA3S11644960.html

評論家の小林秀雄は1946年、戦争に協力した知識人が次々と反省の弁を述べる風潮に対して「僕は無智(むち)だから反省なぞしない。利巧(りこう)な奴(やつ)はたんと反省してみるがいい」と発言し、物議を醸した。

 5年後、小林はこう書いた。「私達(わたしたち)は、戦争によって、とても口には言えぬ、めいめいの生活の不幸を経験した。私達は、みな生(な)ま身の俳優となって戦争という一大劇を演じた」「それは、後になって清算すれば事が済むような一政治事件ではなかった」

 小林の真意は「表向きの政治的立場を変えたぐらいでは、敗戦で負った深い心の傷からは立ち直れない。日本人は、実存を賭けて敗戦のトラウマと向き合う必要がある」ということではなかったか。

とのことですが、そのような表向きの看板を掲げて、思考停止をして反省しない口実にしたというのが実際ではないか。

小林は有名な「近代の超克」座談会の主要なメンバーであり、戦後もその考えを捨てていません。

そして、茂木健一郎さんは著書で、ユリ・ゲラーに傾倒する晩年の小林秀雄の姿を描いています。

もちろん東洋哲学は重厚で芳醇な内容を持つものですが、小林秀雄の「近代の超克」は西洋に東洋の神秘を当てるような、本格的なものの対極にあるようなものだったのではないでしょうか。
それはいわゆるオリエンタリズムの一種であって、西洋からの東洋の見方でもあります。

子どもだった私がヤマトに魅了されたのは、そうした生きがたさを乗り越える試みの物語であることを、直観的に悟ったからだろう。

とのことですが、結局「ヤマト」は上の小林のような、反省をしない思考停止の人たちによって、そのために紡がれた物語と総括できないだろうか。再生を目指したかのような、変わらないための物語だったといえないか。

以上に書いたようにとてもきれいに総括して終われる作品では全くない、というのが私の意見です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました