サントリー美術館 生誕250周年谷文晁 第一展示期間 その8

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行って参りました。

谷文晁は幕末の人。展覧会の最初の方には履歴書を模した人物紹介が書いてあって、やたらに号が多いのが眼に付きます。そこら辺は改名を繰り返した北斎と共通していて、時代もどんぴしゃ。様々な流派を学んだことでも共通していますが、同席することはあっても交流はなかった模様。谷文晁のパトロンは松平定信であり、取り締まる側と取り締まられる側位の断絶があって、それは超えられることは無かったのだろうと思います。

生まれは台東区の根岸であるとのこと。地元の人の展覧会といった趣もあります。

一番最初においてあった「孔雀図 谷文晁筆 一基 上野記念館」はすぐ補修できそうな陥没がいくつかあったんですけど、補修されていませんでしたね。

「序章 様式のカオス」は一枚一枚作風の違うものが出てくる趣向。色々な流派を学んでいて「八宗兼学」と呼ばれていたそう。
一番最初に学んだのはまずは狩野派。次いで南蘋画で、彼の風景画は若冲の基本でもあるこの様式が基本であるとのこと。他にも洋風表現も学んでおり「ファン・ロイエン筆花鳥図模写 谷文晁筆 一幅 神戸市立博物館」は日本の絵の具を使っただけの、ズバリの洋風描写の模写。

「連山春色図 谷文晁筆 一幅 寛政 9 年(1797) 静岡県立美術館」はちょっと洋風。

中国画の技法でも、色々な派のものを学んでいるらしく、基本的には北宗画と言われるるカテゴリーのものを描くのですが「千山万水図 谷文晁画/柴野栗山賛 一幅 文化 4 年(1807) 田原市博物館」は米法山水といわれる技法。

「渓山樵夫図 谷文晁筆 一幅 文政 9 年(1826) 個人蔵」は披麻皴という線を並べて行く山水画ですが、ムンクのような曲線のリズムが面白い作品です。

「慈母観音図 谷文晁筆 一幅 山形美術館・◯山 長谷川コレクション」は呉道玄ものの写しで、じつに良い慈眼をしています。

「仏涅槃図 谷文晁筆 一幅 享和 2 年(1802) 宗教法人 大統寺」は原図があるらしく、鎌倉の仏画を踏まえて描いたもので、「仏画で文晁の右に出るものはいない」との解説。

古典から吸収した量が半端ではないのがその裏づけといえるでしょう。

解説のお姉さまによると、一つの流派しか学ばなかった当時の画壇で、これだけ学んでいるのは異例ということですけど、盟友の酒井抱一も狩野派・南蘋派・歌川派と学んだ上で琳派に私淑していました。
武術でも仏教でも何でも昔の人は色々な流派を学んでいるというのが私の感覚。八宗兼学というのもそもそも仏教用語です。

日本の伝統芸能で流派の縛りというと、私が知っている一番古いもので、宮城道雄が筝の師匠につくときに、他の師匠にはつかないと誓約させられたことですけど、その頃に変質してきて、一人の師匠に就くのが正統であるかのような今日の伝統芸能の状態・イメージが出来上がったのではないでしょうか。スポーツなどでも同じ状況が、弟子の飛躍を阻んでいる例がかなりあると思います。

「第1章 画業のはじまり」は若い頃から始まる画業を振り返るもの。

「文晁が好き嫌いの句 二幅 個人蔵」は好き嫌いを書き連ねたもので、プレ橘曙覧的。
嫌いなものの中の、ものの分からぬ人、というのはまっとうな感覚が無い人という意味でしょう。

「瀑布之図 谷文晁筆 一幅 個人蔵」はバランスの良い水墨画。

「達磨・徳山・臨済像 加藤文麗筆 三幅 濟松寺」は禅僧のものと比べるとやはり細部が簡明かつ絵的に描けている感じ。達摩は正面を向いています。

「三聖図 文晁画稿 谷文晁写 一幅 天明 4 年(1784) 東京藝術大学」は狂態邪学と呼ばれた浙派の技法で描かれているとのこと。

「夏谿新晴図 谷文晁筆 一幅 寛政 11 年(1799) 東京藝術大学」はフレッシュできりっとした作品。

「四季山水図 谷文晁筆 四幅 個人蔵」は湿度で四季を描き分けた意欲作。

「鍾馗・山水図 谷文晁筆 三幅 文化 9 年(1812) 個人蔵」は珍しく梅の花を持った鍾馗で、モデルとなったという関羽の文雅な側面を連想させます。

「文晁画談 谷文晁著 一冊 文化 8 年(1811) 東京国立博物館」は似顔絵を描く秘訣が書かれていて、ことごとく似せてはいけない、似せては命を損なう、とあるとのこと。ここでも画意が大切ということでしょう。

「画学斎図藁 谷文晁筆 一冊 文化 9 年(1812) 田原市博物館」はスケッチ帳で、大体半年で180ページのものを一冊使っているとのこと。一晩に百枚描く事もあったそうです。
開いている部分では西洋人のスケッチが出ています。

日本・中国のあらゆる流派から、西洋絵画、朝鮮絵画、琉球をも含めた技法をマスターしており、カタログには「汎アジア的」な画家であるとの解説が。この時代の総合者と言えましょう。

ただ当時の古典に偏ってはおり、浮世絵の様式は入っていない模様で、砕けたものとしては、抱一の江戸琳派風のものが辛うじてあるかなぁ、という程度。

「第2章 松平定信と『集古十種』―― 旅と写生」が、ああそういう人だったのか、と思わせる章で、松平定信に従って、日本各地の文化財から自然、黒船までスケッチしていたとのこと。自らも絵を描いた定信は文化財保護に熱心だったらしく、そのための旅であり、またカメラマンでもあったといえるみたいです。歴史的にいえば谷文晁は定信の「眼」であった、といえそうです。

市民文化側からみると文化の破壊者のようにも映る定信は、実は文化財保護に熱心であった模様。

この膨大な画風もそういった中から生まれたものであって、画風の模倣は完璧なのですが、消化して新しい画風を打ち立てるところまでには到達しなったようにも感じます。ルポライター的な雰囲気が絵から消えなかったのは確かだと思います。

同じ総合的な絵師でも、北斎とはまったく由来が異なる絵師であることが分かります。

こちらは清廉ですが、150年早い張大千、といったよう形容詞が頭に浮かびました。

「松平定信自画像 松平定信筆 一幅 天明 7 年(1787) 鎭國守國神社」はその定信が老中に就任した30歳の時に描いた自画像。

「集古十種 松平定信編 八十五冊のうち四冊 大和文華館」はその文晁にスケッチさせたものを出版した、巨大な古美術の集成。85冊のなかに1800点がまとめられているのだそう。江戸期の事業を巨大プロジェクトと表現するのを良く見かけますが、これはまさに文化財方面では一番大きなプロジェクトだったでしょう。

「異国船図 谷文晁画/松平定信題記 一幅 文政 12 年(1829) 神戸市立博物館」は黒船が現れるの注意するように呼びかけたもの。

「松島画紀行・松島日記(写本) 原本は谷文晁筆 一冊 仙台市博物館」や「名山図譜・日本名山図会 版木 九枚 美術書出版株式会社 芸艸堂」など、日本各地の名所・山々なども旅をしてはスケッチしていた模様。

「神奈川風景図 谷文晁筆 一幅 享和 2 年(1802) 大和文華館」は西洋の色彩遠近法がしっかりと使われているとのこと。

「石山寺縁起絵巻」は鎌倉時代の絵巻の詞書だけだった部分に当時の技法で絵付けをした大作。現代なら戦国時代のものを復元するような感覚であるとの解説。あらゆる古典を実見して取り込んできた文晁ならではの仕事です。

群青がふんだんに使われているようで、とても豪華。押し寄せる波の描写に緩急があって上手いと思います。

本物と本人が作った全巻のコピーがあり、後者はサントリー美術館が持っているのだそうです。コピーの技術は卓越しており、解説で拡大してみせてくれた物は、字体まで実に精巧に模写しています。

次の章は「第4章 文晁をめぐるネットワーク―― 蒹葭堂・抱一・南畝・京伝」ということで人脈も広く、この前観にいったラファエロと同系等の匂いがします。

酒井抱一とは仲が良かったらしく、抱一は歌麿と仲が良かったので、歌麿の友達の友達の友達(?)は松平定信ということになります。

「扇面画帖 谷文晁ほか筆 一帖 個人蔵」は妻の谷幹々の絵ものっており、文晁の妹の秋香と紅藍も女流画家だったらしく、息子達も含めて画家の多い一族なのだそう。

「木村蒹葭堂像 谷文晁筆 一幅 享和 2 年(1802) 大阪府教育委員会」は有名な作品で解説には代表作とも。蒹葭堂の内側から出る好奇心や、鷹揚な感じが良く出ています。

「奉時清玩帖 谷文晁ほか筆 二冊 文晁画:寛政 8 年(1796) 個人蔵」は色々な画家の作品を集めたものですけど、やはり若冲の墨の生気は独特だなぁ、と思います。

「江戸高名会亭尽 山谷 八百善 歌川広重画 一枚 サントリー美術館」この八百善の中にかかっている絵が文晁のものであるとのこと。

「江戸流行料理通 栗山善四郎著/谷文晁・酒井抱一・鍬形蕙斎ほか画 四編二冊合本 西尾市岩瀬文庫」はこの面々に加えて北斎の絵も載っているらしく、どんな料理本なのかと。

「水墨山水図屏風 谷文晁筆 六曲一双 天保 9 年(1838) 個人蔵」は大きな作品で、雄渾でダイナミック。文晁は破綻無くまとめてしまうところがあるので、どちらかというと大きな作品の方が、バランス的に向いているのかもしれません。

「富士山図屏風 谷文晁筆 六曲一隻 天保 6 年(1835) 静岡県立美術館」は写実によって富士そのものが持つ霊峰性を浮かび上がらせたような作品。

「山水図 写山楼画本 原本は雪舟筆 一幅 個人蔵」は雪舟の絵の太さを感じさせます。
「柿図 写山楼画本 原本は牧谿筆 一枚 個人蔵」はシンプルの極み。

物凄く弟子が多い優れた教育者でもあって、一番有名な弟子の「鯉図 渡辺崋山筆 一幅 天保 3 年(1832) 個人蔵」は繊細な印象を受けます。

文人画家だと思っていたんですけど、今回出ていた作品の中で賛がある物は意外と少なかったですね。

また、松平定信の「眼」だったせいか、はみ出した表現は無く、通観してスケールの小ささは否めない所があると思います。

文晁と対極にあるとも言える自己模倣的な作家は歴史上数多くいますが、逆にいうと彼らは自分の内側から湧き出る必殺技を持っていたともいえるでしょう。文晁はそういったものを得るに至らなかったのではないか、という感じもします。

ただ幅の広さをスケールと捉えれば、それは冠絶していますし、技術の精妙さも比類のないものといえるでしょう。

時代を背負っていた人で、これだけ特殊な画家だとは知りませんでした。ありがとうございました。

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