いじめ事件では政策として「35人学級にするのを元に戻した自民党」(http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20130129-OYT8T00587.htm)が逆行しかねず重要だと思いますが、メディアで議論されているのをみたことがありません。非常に不審に思います。
1月31日の報ステではいじめ事件をやっていて、古館さんは最後のまとめに人の立場に立つことが大切だといっていて、それはその通り、非常に大切なことなんですけど、あえて言えばその前に、本当に自分を大切にすることが根本なんですよね。
中村元さんは「慈悲」というのを説く時に、それは相手の立場に立って物事を考えることだ、ということは私の知るかぎり書かれていません。自分を本当の意味で大切にしたとき、その延長線上に人の痛みを感じる(自他不二の境地)。そして自然に助けてしまうのが慈悲だ、と仰られていて、この手順を省略されることはありませんでした。
引用すると「簡単にいうならば、慈悲の実践はひとが自他不二の方向に向かって行為的に動くことのうちに存ずる。それは個々の場合に自己をすてて他人を生かすことであるといってもよいであろう。もし単に自己を否定するというだけであるならば、それは虚無主義とならざるを得ない。これは現代における有力な思想傾向となっているが、自他不二の倫理はそれの超克を目指すものであるといってもよいであろう。それは個別的な場合に即して実現されるべきものであるが、しかも時間的・空間的限定を超えた永遠の意義をもって来る。それは宗教に基礎づけられた倫理的実践であるということができるであろう。」(慈悲 講談社学術文庫版270ページ)とのこと。
「二十一世紀に生きる君たちへ」の中で司馬遼太郎さんは、人の立場に立って物事を考えることが大切だ、と書いていて、これに感動をした人も多いでしょうし、実際日本の戦後の教育現場でも数え切れないくらいの回数で言われた言葉だと思うのですが、実は人は相手の立場に立ちなさいといわれても人の立場に立つことはできない。自分を正しく大切にして、その結果として人の気持ちが解るようになり、人の立場に立って物事を考えられるようになるのであって、日本の戦後の教育では、この自分を正しく大切にするという部分がすっかり抜け落ちてしまっていると思うのです。
データ的にも裏付けるように、日本の子供の自己肯定感の国際比較での低さは、つとに有名です。(http://www.kyoiku-kensyu.metro.tokyo.jp/information/kenkyuhoukoku_kiyou/houkoku_20_data/jikokoutei_jisonkanjou.pdf)実はこの子供に自己肯定感を育ませない教育のあり方こそが、いじめ問題の深層の本質であると考えています。
また、中村元さんの言葉を元にこの文章を構成しているように、仏教は「天上天下唯我獨尊」が教えの根本です。自分を大切にすることがまず一番にあるのです。また論語なども士人としての生き方、節の全うし方が書かれていて、これも自分を大切にする思想であるといえます。東洋哲学的な発想の教育の場での欠如を指摘したいと思います。(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/51935287.html)
そんな問題点を、古館さんに限らず、今回のいじめ問題、大きく広げては長年の日本の教育に感じるのです。
2月1日の朝日新聞一面は「発送電分離、5年後めど 経産省検討、改正法案付則に」(http://www.asahi.com/business/update/0201/TKY201301310511.html)外部の有識者がいったというだけで、経産省内部が動いたという話ではありません。この見出しでは錯覚する人も多いでしょうし、本文とずれがあり、それを狙っていると考えられます。錯覚させて得になるのは自民党政権でしょう。
最後には、「一方、発送電分離や小売自由化を進めると、電力の安定供給に誰が責任を持つのかがはっきりしなくなるとの批判もある。」と人事のように書いていますが、そのまえに計画停電の時や、夏・冬の節電キャンペーンの時に電力会社が安定供給に責任を持った態度を取ったとは思えません。そしてそのことを批判しないで嘘のキャンペーンに加担して、再稼動を促し、多くのお年寄りを死なせて検証もしないのはメディアなのです。
続いて「電力供給が不安定になれば、逆に電気料金値上げにつながるとの見方もある」とも書いてありましたが、前段の前提がおかしいですし、供給のコントロールであれば現代のスマートグリッドの技術で上手く運用できるといわれ、これは原子力ムラの意見だと思います。
全体として、論の出所を書くでもなく、自分の意見であるとも書かず、原子力ムラ特有の見解を書き連ねているのではないかと思います。
戦前から小泉政権まで、詐欺の片棒を担いでしまっているのではないでしょうか。
発送電分離は最近のニュースで5年後に先送りすることが正式に決まったとのこと。(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130208/k10015399651000.html)
2月2日の報道特集では最後のニュースに「報道の自由度ランク、日本は大幅に順位後退」(http://www.sanspo.com/geino/news/20130201/sot13020100100000-n1.html)を取り上げましたが、日下部正樹さんが「政府から開示される情報が少なすぎる」金平茂紀さんが「低すぎるかなと……」と意味不明の発言。
政府は確かに酷いのですが、他者でに責任を帰す前に、「国境なき記者団」のリポートにちゃんと書かれている記者クラブ問題などに対して、慚愧の念を示すべきなのです。自分たちでも問題が非常に多くあることを認識していながら、無いかのように振舞っているのではないでしょうか。
政府の情報開示は確かに少ないのですが、そもそも政府は隠蔽したがるものであるともいえ、それに対して強力に開示を求めていくのがメディアの本来の役割です。例えば東電のビデオの公開についても責任者を特定して追いかけるということはしません。おおむね正しいことが書いてあるとおもうのですけど、長くなるので引用しませんが、手元にある人は是非確認して欲しいのですが、例えば「タブーの正体!: マスコミが「あのこと」に触れない理由」 (ちくま新書) 川端 幹人 (著))の8~12ページに書かれているようなことに対する責任は誰が負って、再発防止作はどのようにするのか。必ず発表するべきです。
情報の開示以前に情報の開示を求める、政府に対して主にアクセスできる記者クラブメディアの極端な意欲の無さが、一番の致命的な問題です。
そもそも報道の自由を不断に求めていく立場なら、その通りだもっと改善するべきだ、とこれをてこに政府・社会に訴えるべきですが、そうではなくて現状の擁護に回っているということは、彼らが報道の自由を規制する側に回っていることを暗に示しているのではないかと思います。
2月4日の16時30分ごろの文化放送の夕焼け寺ちゃんで週刊金曜日の平井編集長が、安倍政権の伝統文化は明治維新以後しか視野に入っていない、といっていましたけど、その通りで、明治政府は江戸期(以前)の否定であって、その思想は真逆といって良いんですよね。
知識人や区別するべき学者でもここら辺がごっちゃになっている人が多かったんですけど、最近ちゃんと区別する人が多くなって嬉しいです。
安倍とか、三島由紀夫と、白川静さんや中村元さんをごっちゃにしでは、まさにミソも何も無い世界だと思います。
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