AKBの総選挙が終わりましたね~。
喜び方とか、率直に言って、将軍様にどうこうというか、カルト宗教じゃないんだから、と思ったんですけど、東電に入社が決まったとか、ああいういう感じで喜ぶ人も結構多いのではないかと思います。
前に競争の仕組みを話したんですけど、前の世代。本田宗一郎であるとか松下幸之助の時の競争と今の競争の質の何か違うか、といえば、彼らは自らの個性を最大限に発揮することで、競争を勝ち抜いてきたと思うんです。独創的な決断を積み重ねることで、生き残ったのだと思うのです。
もちろん比較的、という話ではありますが、それに比べると今の競争はかなりノモス的。本当にそうする必要があるのか、というのはともかくとして、社会の要請に応える為にそこに適応する競争をしていると思うんです。
宮崎駿さんがよく仰っていますけど、個性的のようにみえて、経済的に評価されない個性は無化される。就職活動でスペックなんていうことばを聞きますけど、これも会社側の要請をどれだけ満たしているか、ということでしょう。
そういう社会の状況を、AKBの総選挙は的確に再現しているのではないでしょうか。これは最近のアイドル全体の傾向のような気がするんですが、応援する側もノモス的な競争をしていない人には感情移入をしづらくなっているんだと思うんです。
それにしても秋元がすべて金を巻き上げる構造が気に入りません。踏み込んでいえば、これは世代間格差を象徴しておる。
なにはともあれ、僕は十年来の大島ファンなんですよね。ドヤっ (`・ω・´) ドヤっ
AKBに入ったと聞いたときは、流石に思いきったな、と思ったんですけど、活躍されるようになって良かったです。
というわけで、こういう社会状況との噛み合い方と、大島さん。もしくはそれに匹敵するような人材を供給することに失敗しなければ、AKBのブームは続くのではないでしょうか。
昼直前に着いたので、食事時まで他の展示をみて時間調整を。
「日本の考古」では大崎市出土の土偶が、遮光器土偶に似た系列の、完品の見事な作品。たしか完品の土偶が出てこないのは、欠損させる事に呪術的な意味があったからだとどこかで聞いたんですが、この土偶はどんな流れで完璧なんでしょうね。
香川県出土の「銅鐸」もぴかぴかの胴体に描かれている絵が原初的。
仏像では「如来および両脇侍像 3躯」(朝鮮三国時代・6~7世紀)が品性のある佇まい。凄く良いんですけど、仏像のよさはいわくいい難しで、品性が滲みでているとしかいえません(笑)秘仏の善光寺の本尊は、これに似たようなものであろうとのこと。
刀剣では国宝の「飛鳥時代・7世紀 大阪・四天王寺蔵」が珍しい作品。この時代だから直刀なんですが、こんなに綺麗な状態なのははじめてみました。現に極めて稀なものなのだそうです。前に平泉展で坂上田村麻呂の佩刀として出品されていた刀は、直刀である、ということが辛うじて確認できる位まで朽ちていましたからね。
聖徳太子の佩刀として伝わっていて、中国で作られた物なのだそうです。日本刀も螺鈿のように、東アジアの吹き溜まり文化の一つなんですかね?
最初の方は状態の良い代表作がずらりと。
「四代目松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛」は近くからみると僅かに掠れていますが、背景の黒雲母が完品の様な残り方。
同じく「二代目嵐龍蔵の金かし石部の金吉」もこうなると着物が美しく、瀟洒な雰囲気も出てきます。
「三代目市川八百蔵の田辺文蔵」とかこんなに着物が赤かったんですね。
写楽はよくへぼいへぼいと言われますが、「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木と中村万世の腰元若草」や「二代目沢村淀五郎の川連法眼と初代坂東善次の鬼佐渡坊」の手の描写とか結構良く描けていると思うのですが、どんなものですかね。
「歌舞伎遊楽図屏風」は歌舞伎の源流を示すということで展示。いわゆる若衆歌舞伎の時代、
一つ前のおばあさんが「このころあんまりお行儀も良くないんだ」と言っていましたけど、正座をしていませんからね。
このまえ「和風総本家」で立ち食いする修学旅行生を叱る浅草店主を伝統を守る人として登場させていましたけど、江戸時代は立ち食い店だらけのはずで、立ち食いを嫌がるのは最近の文化だと思うんですよね。そういうのを調べた資料を見たことが無いので断言できませんが。
たとえば、西洋でも「われわれがうっかりするときわめて古い伝統あるものと思い込みがちな農村文化の特徴は、じつは十九世紀や、せいぜい十八世紀にまでしか遡らないことが少なくないという。」(近代ヨーロッパの覇権 (興亡の世界史)福井 憲彦 235ページ)のだそうですが、伝統に対してそういった深いツッコミを備えることで、この番組の質も非常に向上するのではないかと思います。
「和風総本家」は仏像ソムリエのコーナーが無くなってから、めっきりみなくなりました。
いまちょっと部屋を掘っても出てこなかったんですけど、「日本史を読む」((中公文庫) 丸谷 才一 (著), 山崎 正和 (著)) では日本人は昔から時間に正確だったとして、その歴史性について話しています。しかし、最近でも「たけしのミカタ」のスペシャルで断言されていましたが、それは大正時代以降の風潮で、思い込みである、とのこと。
幕末の西洋人の記録を読んでも、日本人は時間を守らないので一苦労だ、という話が出てくるようです。
古代では中国人も辮髪をしていて、満州族とかの習俗はそれが残存したものだ、といいますが、沖縄時間ですとかも日本本来のものが離れた土地に残存し、本来の自分たちの習俗だとは気が付かれなくなったものだといえるでしょう。
残存といえば、商という王朝は神事にお酒を使うので、年がら年中薄い酒を飲んでいたようで、商の時代の展覧会に行くと「尊」とか「か」とか酒器ばかり出てきます。
後に中国では酔っ払うのを良しとしなくなりましたが、「殷と日本民族との間には、(中略)重要な点において共通する所が多い。」(続文字講話 60ページ)といった、商とそっくりであるという日本に受け継がれて、現代でも御神酒があったりお酒に甘いといわれる社会になっています。
モンゴルについては白川静さんは直接は断言されていないんですけど、ここのお酒を重視する文化も、その残存といえるでしょう。
字統の酒の項によると、商では「酒によって神人一体の至境を具現することが、政治の要諦とされた。」らしく、それで良いのか、とも思うんですけど、薄い酒で実際は酔わないそうですから、そういう境地を尊重する事を儀式で示したと解釈。
商と同系の民俗を受け継ぐ日本の東方Projectがお酒と縁が深いのは、何か意味があるのではないかと思います。
文字数制限に引っかかったので分割いたします。
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