行って参りました。
最初にあった「藍色被栓付瓶」は、本展屈指の心に残る作品。縦長の瓶で、青みに強調された透明感。すっくとした姿が美しく、異国情緒も漂います。
まったく薩摩切子といいますのは、清らかさが第一の特徴なんですが、イギリスやボヘミアの様式の影響も受けているそうです。清らかさの上にそういう文化的な香りがちょっと乗ることで、川の上に木の葉が舞い落ちて流れることで、下の水の清らかさが初めて自覚されるような、そういう効果があったと思います。
最初の方は、モデルになったアイルランド、イギリス、ボヘミアのガラスが続きます。ボヘミアの物がジプシーの香りというとそのままですけど、「カットガラス 紺色被皿」ですとか、水玉のちょっとした配置にまでそういうものを感じさせる、民族的な力強さがありました。
並列して配置されていたのは、洋書の翻訳物など、島津斉彬らが集めたガラスの資料。斉彬という人が、殖産的な面からだけではなく、ガラスそのものをとても愛していたんだな、ということが、肌を通して伝わってきました。
西洋では科学と芸術が連関しながら発達して来ましたが、そういう風に見れば、薩摩藩の技術は西洋文明の正嫡だったといえそうで、その原点の筋の良さが明治維新を支え、開化以降も良い影響力を発揮したのかもしれません。
薩摩切子はそんな柔軟な摂取の象徴のように見えます。
「35.36 薩摩切子 脚付杯」は無色の、本当に清楚さで勝負した、小ぶりの作品。ただ、薩摩切子には日本刀の美しさを日用品に移したような感じがあって、この作品にも涼やかなトゲがあるとも言えます(笑)
角度の違いを楽しめる展覧会で、しゃがんで真横から見るとまた違う味わいがあります。
「紫色被脚付杯」は小さい中に工夫が絶妙に詰った作品。大きな彫り(斜格子というらしい)に細かい紋様(麻の葉)、点のような紋様(魚子)が緻密に彫られていて、上辺にはぼかし。土台は鈍い色でねとねとした感じで、そのまま深みに落ちていきそうな、立ち方をしています。
「紅色被三段重」は角型の照明のような形の作品。赤い色の作品は、何故か光りを吸い込んでいるような印象を受ける物が多かったです。この作品も光りを内側で散乱させて、閉じ込め切れなかったものが、繊細な紋様から僅かに漏れてくる様な作品で、一色単の美しさではありません。
「雛道具」は篤姫の嫁入り道具で、薩摩切子をそのままミニチュア化した作品。解説によれば藩の威信をかけて作られたそうで、微細な彫琢の凄まじさは、この展覧会の中でも群を抜いています。小人の国が、信じがたい素材で、現実化されています。
「藍色被栓付瓶」は徳川家所蔵の品だそうで、名前の通り藍色なんですが、藍が濃すぎて黒色に見えます(笑)漆器のようなガラスに、徳川家の家風を感じました。
「藍色被三ツ組盃・盃台」は盃が重ねられ重層的な作品。オブジェの様で、中心に向かって濃くなって行く藍には、海の深みを感じずには居られませんでした。
「紫色被ちろり」は冷酒専用のちろり。清らかさが増す様で、日本酒の為に用意したくなる気持ちが良く分かります(笑)いや、飲みませんけど。
「黄色碗」は黒義山と呼ばれていた、セピア色と言いたくなるお碗。黒色ではなく、黒の語源が暗しだったことを思い出させますが、むしろ昏しという字を当てたいです(^_^;)
「145.藍色被脚付杯」は幾何学的な模様が、西洋風を思わせる均質さ。アーモンド形の装飾もそれらしかったです。
「153.紅色被鉢」は最後に置かれた凄い作品。ぼかしと魚子模様の美しさが、極めて凛としています。赤い色の器で、光を集めているような感じがするのですが、それを更に吐き出しているようで、ゴジラの光線が天井に向かって照射されているような感覚がしました(笑)
更に凄いのが、上から当たった照明が切子を通過して地面に出来た、光の紋様で、その美しさはまさにまぼろしの薩摩切子。
ほかに特に光りの紋様が綺麗だったものに「99.藍色被船形鉢」がありました。サントリーは水と生きる展で、連想させるということで、切子と水を関連づけて展示していましたが、その一等美しいかたちが、この青い照り返しにあると思います。
というわけで、薩摩切子は器であるという点に以上に、環境も含めて薩摩切子なのだな、と思わされました。
薩摩切子の展覧会でしたが、同時に水の展覧会であり、光りの展覧会であったというのが、一番の感想です。
企画に携わられた方々は、ありがとうございました。
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