朝日新聞夕刊2013年下半期その2

#練習用

12月20日の夕刊の「ダダ漏れ民主主義に希望」という「デモクラシーの生と死」(ジョン・キーン (著), 森本 醇 (翻訳))の著者のインタヴューでは「とにかく欧米的な価値として語られる民主主義の歴史を、真に民主的で世界的な視点から書き直した」とのこと。「集会デモクラシーがギリシャ発祥という定型を、考古学の成果を基にメソポタミアまでさかのぼる」といったことが指摘されているとのこと。

やっぱりこれは、西洋の近代が自己を装飾するために生み出した虚構だと思います。植民地主義の歴史などを観ても、どこに民主主義があるのかと思います。

ギリシャに発する西洋に特有のものである、という神話から脱却することが、日本の民主主義を根底から育成する最重要課題であるといえます。

こういったものも、日本の他の伝統文化と同様に、逆輸入の形で気付かされるのでしょうか。

「この民主主義は本物か 時代錯誤の主権概念」(http://www.asahi.com/articles/TKY201310290353.html)では「民主主義とは多数決だという考えも、主権を立法(議会)として捉える誤りから生み出された「大きな偏見」という。」とし「立法中心の民主主義観を変えていけば」とのこと。國分さんが小平で展開されたような運動が、そういった立法中心でない民主主義の一つの形なのでしょう。

こういう観方でみていくと、その部分については、江戸時代はかなり豊かな民主主義を保持していたといえるんですよね。現代の政治的な無関心とは天と地の差があるといって良いくらい違うと思います。そういう面からも見直しが進んでいるということなのでしょう。

民主主義は手間のかかるものだ、ということが最近盛んに言われますが、その手間の部分を担当していたのが、古代ギリシアでは奴隷や地位の低かった女性であり、近代西洋では植民地から吸い上げられる富です。江戸期に日本を筆頭に、そのほかのいくらかの地域でも、明確な選挙という形で多数決の部分が発達していなかったのは(名主などは多数決で決められていたところもあったし、市民の運動で高官が罷免されることもあった)、その余剰の部分が存在しなかったというだけのことではないか、という感が強いです。

「秘密保護法:石破自民幹事長「報道で大勢死んだら?」」(http://mainichi.jp/select/news/20131213k0000m010067000c.html)は戦前に情報が秘密にされたがゆえに、道を誤り、大量の犠牲者を出したという、日本が常に立脚するべき原点を投げ捨てた暴言です。そういう歴史が仮に無かったとしても、論点を意図的にごっそり脱落させた、あほ論説といえるでしょう。

安倍に対して馬鹿という人は多くて、もはや機密でもなんでもなくて、国民の共通認識といってもいいと思います。しかし、そうやって馬鹿にしている人も含めて、かえって背後にいる石破や、その裏にいる官僚に対する依頼心が透けて観えるときがあります。

馬鹿の裏に馬鹿がいて、その裏にさらに馬鹿がいる、という認識が重要です。

特定秘密保護法の連載では、イタリアの社会派監督のマルコ・トゥリオ・ジョルダーナの「日本はイタリアと同じく、戦前に戦前にファシズムに支配された。私たちの民主主義はまだ若く、ひ弱だ。」という言葉が、もっともな話。

同じく山田洋二監督も、私たちが生きていた時代に治安維持法があったのだ、ということを訴えられていましたが、本当に少し前のことなのです。のど元過ぎればと言いますが、本来過ぎてすらいないのではないか。

連続インタヴューでは「ちいちゃんの影送り」の作者のインタヴューもありましたが、これが教科書に選ばれたのは、ただ悲劇だけが載っていて、そこになぜこのようなことが起こり、どのようになにを改善すればよいかなどという話が全く載っていないからだと思うんですよね。優れているが故ではなく、優れていないがゆえに教科書に載り続けたのではないかと思うのです。

軍部であるとか、軍国主義を復活させてはならないという強いメッセージを持った作品を、小学校の国語の教科書にふんだんに載せるべきだったのではないか。それが出来なかったことが、今日のような政治状況を招いているといえます。

百田尚樹さんの「永遠 の0」のCMが流れていて、私はこの作品を全く観ていませんが、どうも綺麗に書いているのではないかという感触がぬぐえません。

何もしていないのに、憲兵隊に追いかけられ、捕まって、拷問を受けるようなシーンがない作品は、戦争映画としてまったく失格ではないか。

「学徒出陣、いま問う 死んだ仲間に負い目、自分は逃げたのか 壮行会70年」(http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201310120501.html)という記事もありましたが、ここにあるような戦争の実態を実感できる映画になっているのでしょうか。

記事中では「あのころの社会には笑いやユーモアがなかった。」というのが、どのような社会が無残な戦争に向けて突入していくのかということを示していて、示唆的。
かつてのbeの礒田道文さんの連載では、終戦時の首相で江戸時代生まれである鈴木貫太郎について触れていて、終戦が江戸人によってなされたことは記憶されてよいだろう、ということが書かれていました。
江戸期はユーモアの文明といっても良いくらいだと思うんですけど、その巡り合わせを思う時に私は非常に深い意味を感じざるを得ないのです。

「風立ちぬ」も、きれい目に作っているところがあるといいますが、中国戦線でのゼロ戦を全く無視しているという評も多く聞かれます。どうも堀越二郎はそんなに純粋な人だったような気もしないのですが。半藤一利さんと話が合う、という時点で、そもそもどうなのか、といった所でしょう。やっぱり現実とリンクする作品を作るのは、難しかったのではないですかね。

と書いていたらやはり「百田尚樹さん、参拝を歓迎 「国民の代表として当然」」(http://www.asahi.com/articles/ASF0OSK201312260082.html)というコメントが。見識・心ある人は批判をしなくて良いのでしょうか。それは拝金主義に基づく、事なかれ主義ではないか。社会もこのような人を、安易に持ち上げるべきではないのです。

おやすみなさい。

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