(http://www.asahi.com/articles/ASJ6F25WVJ6FULZU006.htm)は昨日まで知りませんでした。たまにまだご存命なのだろうか、と最近は思うことが多かったのですが。
誰も言わないんですけど、宇野功芳先生の評論のキーワードは「有機的な響き」っていう言葉だと思うんですよね。弦が良く歌っていたりする様、であるとかに使われる言葉です。
しかもその有機的と判定される音色がかなり柔らかい。少しでもつんざくような要素があると無機的と言ったりする。
それはやはり声楽科で声楽が好きだったので、人の声の様な柔らかい音が理想としてあったのだと思う。
やっぱりこの人の基礎は歌なんですね。
こういう聴こえ方をするということは、たぶんロックはおろかポップス全般は無機的に聴こえて好きじゃなかったと思うんですよね。
クラシックばかりが性に合うということになる。
他の分野も聴くけどクラシックも聴くよという人は多いですし、中には本当にこの人クラシックが好きなの?と思わせるような評論家も多いです。そんな中で本当にクラシックが体質に合って、そればかりが好きでずっと聴いていた、というのが宇野先生の活動の根底にあったのだと思います。
だからこそ宇野先生の評論を読んだ人も、クラシックはいいなぁと思えたりするのです。
クラシックを「クラシック」ではなく音楽として聴いていた人、として象徴的な存在で、そういう姿勢を示す意味で長らくブログの検索ワードとして掲げさせていただきました。
評論では「力みがない」「呼吸が深い」などと言っては笑われていましたけど、今の私の目からみると、演奏者の身体性を指摘するこれらの言葉には深い意味がありますし、周囲の声をかまわずにそういうスタイルを貫いていたこともまた稀有なことだったと思います。
下の世代として、こういった方法を伝統として残していくためにも、評価する責務を感じていました。
これらも今思えば声楽という人を楽器として使う学科の出身だったからなのかな、と思います。
また、言いたい放題言っているようで他の勝手なことを言っていた評論家のように業界からつまみ出されなかったのは、結局根本が歌のように温和だったからだと思う。
貶した盤を買う人がいるからだ、という人は多いですが、沢山貶して消えて行った評論家もいるのだから、それだけでは観察として浅い。
個性と温和さのバランスが絶妙でした。
ご冥福をお祈りいたします。
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