11月1日の報ステでは作業員の方が3月24日の作業で大量被曝をしたということで訴えでたという内容。同じ場所に放射線量を計りに来た東電の社員は5分で出て行ってしまったのだそうです。
三浦コメンテーターはこれは氷山の一角ではないかと前置きして、鉛で線量計を隠した話を出して、被曝量を超えて作業をしてもらわないと回らない現状がある、といっていましたが、率直にって東電の太鼓持ちといえるでしょう。
朝日新聞では長く働きたい作業員の本音に注目するべきだと書いていましたが、それはおかしいのではないかという話は前に書きました。
この記事を受けていえば、そこに注目するならば前提として普通にやってちゃんと回るはずで、記事の内容と矛盾しているといえます。
ただ、この事件はなかなかサボタージュのような感じで解明が進んでないらしく、なかなか見通せませんね。(http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012103190070429.html)
よしんば回らないとして、大量の被曝をした人にはそれ相応の礼を尽くすべきで、それが出来ていないからこその今回の訴えであり、鉛で線量計を隠した時の人達にもそれ相応のケアや補償がいっているという話は聞いておりません。
上の記事からもわかるとおり、本質は金銭的に追い詰めた形で人を使い捨てる東電の体質にあり、そこを指摘するべきだと思います。
また、老人で決死隊を組むという話もありましたが、二次受け三次受けにやらせないで東電本体が当るべき仕事です。安全神話の果てに破局を呼び寄せた、当事者がのうのうと安全地帯にいて良いのか、という部分も指摘するべきだと思います。
そうすれば問題になっている中抜きの分の費用も浮きます。本来許されないことですが、国民に電気料金として自分たちの賠償を払わせている現状で、最低限これくらいはやるべきなのではないでしょうか。そもそもそれだけの常識があったら国民に転嫁しないともいえますが。
「告発の原発作業員、朝日新聞に語る」(http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000001211020006)というニュースもありましたが、この声を聞いてなお問題の中心を作業員の使い捨てからずらす、というのは出来ないことではないかと思います。
そしてその使い捨てはここにあるように、長期的な視野での原発作業員の欠乏を招き、まったく合理性を欠いており、単に東電の意思決定機関の人間的な傾向に根ざすものです。最終的にはそこを改善していかなければならないというのが課題になるでしょう。
まとめれば、三浦さんの発言は、正しく人権を擁護するべきジャーナリズムとしてあるまじき発言であったと思います。
11月2日のNHKでは「ダマスカスがゴーストタウンに」という見出しでBSがニュースを伝えていましたが、日本では「死の町」といってはいけないのに、なぜこうもあっさり他国に使用するのか。
そもそもいったかどうかもわからない特に失言とも思えない言葉を各社一斉に取り上げて鉢呂大臣を辞任に追い込んだことも明らかに異常な報道であって、何百倍にも罪深いといえる森本防衛大臣の失言を最低同じレヴェルで取り上げないのも異常です。
こういった罪深い偏向が繰り返される素地が濃厚にあるとしか思えず、玉川さんがかすめた程度の癒着の関係ではありえないのではないかと思います。
結局は電通に行き着くのではないかという気もします。
文科省の大学の新設の話もありましたけど、今回は建物が完成しており、生徒が困るだけで予定通り開校するしかないでしょう。
ただなぜこのように増やしていくかといえば、前に言ったような再就職がらみの話なのでしょう。そういうテレビ報道は皆無で、これはとてもおかしいと思います。
45パーセントが定員割れで、子供が減っている中でそれに逆行して利権に巣食うのは国を食いつぶす行為といえます。
11月3日の朝日新聞の社説では不認可に疑問を呈するのは順当ですが、このような視点に触れないのはジャーナリズムとしての責務を果していないと思います。11月6日の天声人語も同じく。
この社説だけではなく、テレビでも11月5日のモーニングバードで青木さんが天下りの巣窟になっていることを指摘した以外は、そういうのはまったくみず、同じく役割を果たしていないと思います。
この日のモーニングバードでは会計検査院の無駄遣いの指摘も興味深かったですね。
活断層のニュースもやっていましたけど、聞いた話によると調査メンバーの一人が活断層の有無を聞かれて、関西電力に聞いてみないとわからない、といったそうなんですよね。いやはや。
11月6日のモーニングバードでも清水さんが看護学校は必要だとかより微視的な視点を提供していて秀逸。ただ舘野晴彦さんが不認可は感情的なものとしてまったく掘り下げを欠いていたのはとても残念でした。
また、11月3日の朝日新聞では秋の叙勲が発表されましたが、裁判官などが叙勲をしており、原子力ムラの強力なピースであって、なお変化していない司法関係の人間が貰うのは非常に疑問に感じます。それ以外にもこのまえのウイルス事件など検察はでたらめな捜査が多すぎ、情報公開はなおすすみません。恣意的な捜査もするので弁護士ですら機嫌をうかがっているような状況らしく、極めて不健全であるといえるでしょう。
大学教授だからあげる、という感じも多く、原子力ムラの人達も恐らく自動的にもらえるような仕組みになっているのでしょう。原子力関係でなくとも例えば、大学では大御所の某氏が死ぬと今まで訂正できなかった歴史の解釈の誤りとかが一斉に公にされるとか、そういう矛盾などもありますが、そういった現状の裏にはこういったものを一つの源泉とする権威主義があるでしょう。
女性の叙勲がほぼ見当たらないのもその性質を示しているといえるでしょう。
司馬遼太郎さんは天皇というものを外してみた方が日本の歴史はわかりやすい、といっていましたが、当然そのようなことはなく、明治以降は中央集権のコアとして機能していました。
これは戦争責任を問わないのみならず、戦後も機能を温存させるロジックだったといえるでしょう。
戦後にも中央集権を構成する核としての天皇は残り、だんだん強化されてきたといえます。
そしてそこから来るいびつな歪みは頂点に達しており、叙勲なども特に優れた業績を残した人に絞るなど、そういったものを解体していく必要があるのではないでしょうか。
11月4日のサンデーモーニングでは寺島実郎が色々な学者が色々いうとわからなくなるので信頼を置ける国際機関の基準を参考にするべきだ、といってIAEAを挙げましたが、IAEAが原発推進団体であることは最早市民の常識であり、いかにも中立であるかのような意見を公衆の面前でしらっといえる神経を疑います。
森口事件と活断層の話を一緒くたにして語ったところも論外で、あまりにもおかしいので関口宏さんですら突っ込んでしました。
テレビは原子力ムラとのバランスを取りたくてこの人を重宝しているのだと思いますが、客観的にみて電波発言ばかりであり、そこを直視して報道機関としてのプライドを持って外すべきではないかと思います。
「風を読む」では尼崎の事件を取り上げていて、飴と鞭で支配していた、ということをやっていましたが、直近ではウイルスの事件で明大生が認めなければ少年院送りになる、と恫喝されたのが記憶に新しく、認めれば行かなくて済むという飴に支配されてしまいました。法律をたてにこのような事をやっていることがたちが悪く、このような公的機関の例を出さなかったためにジャーナリズムとしての要素や話の広がりを欠いてしまっていたと思います。
閉鎖的な中で集団から外れないような行動をとりがちだということも取り上げていましたが、個人個人の心の持ちようということではなく、そのようにすると得になってしまう社会の仕組みが問題であり、そこを指摘しないと悪い意味で情緒的な反省になってしまいますし、この番組に仕組みや国のあり方について異議を申し立てるような要素が少ないのは、まさにこの仕組みの中にいるからだと思います。
11月6日のTBSの夕方のニュースでは、世襲議員が多いのではないか、という事をやっていて、内容は見逃しましたけど、取り上げることとして悪くないと思います。
しかしスタジオに戻ると、堀尾さんは、どこの馬の骨ともわからない人より世襲議員の方が良いといわれていますけどね。と発言。
杉尾さんもフォローから入っていましたけど、ここは日本で必ず変えていかなければならないところなのではないでしょうか。
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