原子力ムラに代わって原子力マフィアというよび方がありますけど、やはりどうもしっくり来ません。マフィアという言葉では積極的過ぎて、原子力ムラのぼうふらのような不気味さといいますか、そういうものが表現しきれないんですね。
というわけで、「原子力ムラ」という言葉についてもう一度考えてみたんですけど、ムラとは違いますが同じ様な閉鎖性をもった集団にインドのカースト制が挙げられます。それがどうも、最近ではカースト制はイギリスがインドを分断統治する為に「創作」した、というのが世界史の一般的な認識になっているようです。廃れていたものを拾い上げて再生したそうです。
また似たような閉鎖性をもった集団にアフリカの「部族」があります。実はこれも「植民地政府がアフリカ人統治のための技法として発明し導入し定着させたのが、排他的・閉鎖的、全体への無条件の帰依、未開・野蛮性という三つの特徴を有する部族であった。」(人類はどこへ行くのか (興亡の世界史) 280ページ)なのだそうです。「社会を人為的に階層化」(同259ページ)して統治しやすくしていたそうです。
かつてアフリカには集団同士を横断するような、高度な柔構造の社会が存在していたそうです。
では日本ではどうかと言えば、中世を通じて自力救済の社会と呼ばれる、「全体への無条件の帰依」からほど遠い社会が存在していました。
近世でも同じ様な状況がまだ残っており、江戸初期が対象の本ですが「逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦」(宮崎 克則 (著) )によると、「村もまた他所者を受け入れる開放性を強くもっていた」(211ページ)らしく、流動性も結構高かったようです。
江戸時代は「世論政治の時代」(開国への道 (全集 日本の歴史 12) 平川 新 (著) )で、農村は訴願や献策といった政治への参加もあり、文化的にも非常にレヴェルが高く、私がこれまで引用してきた江戸関連の本や、「百姓の江戸時代 」((ちくま新書) 田中 圭一 (著))などによると、江戸時代の農村は「ムラ」という表現からはかけ離れていると思います。
もし日本の村に部族的な特徴を備えた「ムラ」が存在しているとしたら、それも部族などと同じ様に、「ムラ」も自己植民地化の過程で日本で発明されたものではないかと思います。
前に取り上げた村八分、もこのような中で増えてきたと考えられるでしょう。
そしてその「ムラ」は部族・ムラを作り出して来た側の近代社会と無縁だったのか、というとそうではなく、近代社会自体が部族・ムラ的なものを内包しており、それが外部に表出する形で形成されたのが、実は部族・ムラだったのではないかと思います。
そういう意味で「原子力ムラ」という言葉は、まさに本質を表している。だからとてもしっくりくる言葉に感じるんじゃないかなぁ、と思いました。
最初は空海の来歴が。空海は佐伯氏出身で、司馬遼太郎さんが「空海の風景」で「佐伯氏さえぐ説」を書いていましたけど、某サイトによるとかなりあやしい説なのだそうです。2年前まで有力な説なのかと思っていたのですが・・・。本当にせよ嘘にせよ、学者さんがこの説を正面から取り上げた文章をみた事がありません。それが良くないとおもいます。世の中には放置されている俗説・誤りが事のほか多いのだなぁ、と特に文章の裏を意識して取るようになってからは驚きます。
加えて、「二十世紀末の闇と光」の対談ですとか、空海を非常に高く評価しているように読めるんですけど、他の本では日本仏教で偉かったのは親鸞だけ、という事をたびたび書いています。
司馬遼太郎さんは本音を包み隠して追従できる人で、小説をみると極めて扱いの悪い中国思想についても「聖賢の教え」と頭に付けてみたり、恐らく好きなわけが無い源氏物語(引用したのを読んだことが無い)を偉大だとして、しかし、といった形で落としています(昭和への道)。
恐らく空海に関しても、実際はあまり評価していないのではないかと思います。真言密教に対する主体的な興味も感じませんし。
日本思想といえば、ホイットニー・ヒューストンが亡くなりましたけど、マイケルが亡くなった時と、死因に似たようなものを感じますよね。
やっぱりアメリカは外側からどうにかしようという思想が行き過ぎていると思うんですよね。
本来は日本あたりが対抗軸を打ち出していかなければならないのですが、その日本もどうも外側に頼りすぎているのではないかという状況です。
ジョブズが変な食事療法にはまって手遅れになったといいますし、ちゃんと手術する時はするべきだと思うのですが、内側から治して行きたいという思想自体は悪いものではないと思います。
やはり漢方を拾い上げるなど、日本が東洋の理念に立ち返って、アメリカの過剰な現状を救うくらいの気概を持つ必要があるのではないかと思います。
他にテレビでは、地井武男さんが入院されて、ちい散歩が続くのか微妙な雰囲気みたいですね。地井武男は正直いってみた目がとても胡散臭いんですよね。聞いたところによれば実際に女性関係とか、やっぱりどうもうさんくさいみたいです。なのでこういった番組はとても好きなんですけど、安心して入り込んでみることが出来ないんですよね。
後任には東幹久さんが有力視されているふんいき(なぜか変換できない)(と思ったら変換できた)ですけど、私はぜひぐっさんを推薦したいです。そうだったら毎回みるかもしれません(^_^;)
震災では、瓦礫は現地で処理すれば雇用も生まれて一石二鳥とのことで、わざと対立を煽っているようです。(http://eritokyo.jp/independent/ikeda_tokyonp_20120215.pdf)
広域処理に対する疑問はテレビでみたことは無いですねぇ。科学的に安全でも信用できない、というような市民の声を放送していたことがありましたけど、この記事によると「安全性を強調しているが、実は非科学的」なのだそうです。
計画停電の時の様に、国民の目先をすり替えるのが狙いなのかなぁ、と思います。あえて対立させる処理の仕方は、分断を狙っているのかな、と思います。
焼却との利権関係が指摘されている島田市長が「示さなきゃ」と言う所を「しめださなきゃ」と間違えていましたけど、本音が出たのでしょう。
テレビは市民が反対する所ばかり報道して、論点である放射性物質のサンプル調査でどこまで計かれるのか、といったことや化学物質に関することは報道せず、とても偏向していると思います。
例えば一昨日のテレ朝のモーニングバードでは「島田市の英断」と見出しをつけ、絆だ助け合いだとやっていましたけど、国に反対するのは一部の特殊な人である、という文脈で放送していました。
市長の雰囲気や声を聞けば、なにかおかしいなと勘の鋭い人だと気がつくとおもいます。
分割いたします。
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