面白そうなので、行って参りました。
それにしても東京新聞がよくやってるな、と思ったら、経産省はさっそく圧力をかけてきたみたいですねぇ。このタイミングでどこかが記者クラブを脱退してしまえば、歴史に残る慶事になるんですけどねぇ。
ちなみに記者クラブは江戸時代にはありません(笑)阿部正弘の黒船文書公開もありましたけど、庶民に政策の意見を求めたり(開国への道 (全集 日本の歴史 12)平川 新 (著) )意外とオープンなんですよね。逆に今回の件で政府が在野の人の優れた意見を取り入れたことがあるのかと聞きたい。
バルザックがどうこうという話がありますけど、やはり近代由来なんですよね。あらゆる面で今の日本はナポレオン法典レヴェルということなのではないでしょうか。西洋の五等国なんですね。
それは自分たち、民族の創造性を尊重しない社会の限界なんです。
ベルツは西洋の知とは有機体だといっていますけど、創造性を含めて真似しないと正確なマネにはならないし、そのためには物まねを排除する必要があるのです。
自らを立脚点に創造性を発揮しなければいけないのです。
ルーラント・サーフェレイの「音楽で動物を魅了するオルフェウス」はオルフェウスが主題というより、集まってきている動物達に博物学的な意義があるのだそうです。
ここから暫く、神話を題材とした作品が続きます。
「サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ王」は顔だけレンブラントが描いたといいますが、能の翁といいますか、そういう賢くも神さびた雰囲気。
カーレル・ファン・マンデルの「洪水以前/寓意画(裏面)」はノアの箱舟を作っている傍らで享楽にふける人々を描いており、そういう教訓的な意味があるのだそうです。
白川静さんによると「ギリシアでは吟遊詩人たちによって、ホメロスの詩篇が歌われ、それが思想や文学、さらに絵画や彫刻など美術の世界にまで及んだ。すべての文化が、そこに源泉を求めている。」(桂東雑記Ⅱ 133ページ)のだそうです。
それに比べると「わが国の神話はゆたかであり美しい。」(中国の神話 333ページ)のだそうですが、「はじめから国家神話であること志向し」(桂東雑記Ⅱ 133ページ)「その体系性のゆえにかえって生命を失ったのではないか。」(中国の神話 333ページ)とのことです。
それを思うにつけ、今日の東方Projectの興隆は非常に嬉しいです。とある神主の脱構築的な才能によって、わが国の神話は再生されつつあるのではなかろうか。日本的なセンスが盛り込まれた絵画はもとより、雅楽との融合など、一見本筋と関係ないような展開が、非常に面白いし、可能性を秘めていると思います。
レンブラントの「マールトヘン・ファン・ビルダーベークの肖像」は襟のレースの質感など、見事な伎倆です。
フランス・ハルスは印象派に絶賛された画家らしく、「男の肖像」が筆触をざっくりと残した感じの、確かに周囲の絵とは微妙に違う絵。
当時の世界観を示すということで、この時代の地図などが。天球図や地球儀は平戸藩のものなのだそうです。
「ファルク・アジア図」(1695年頃、銅版)はやはり興味深いです。載っている範囲はギリシア以東で、偶然にも井筒俊彦さんの東洋哲学の範囲と同じです。
丁寧に描かれているか否かで、興味・重要さの浅深が伝わってくるのが面白い所。
マレー半島やマルク諸島などはかなり詳細。中央アジアも詳細で存在感があって、「混一疆理歴代国都之図」の原図など、モンゴル帝国の知識も含まれた図なんですかね。(しかし、本当かどうかは分かりませんけど、ウィキペディアのこの地図の項目は詳細ですね(笑))
「大航海時代なる表現は、もとより重大な疑義を含む」(杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(興亡の世界史 9) 103ページ)らしく、グローバリズムは元の時代に相当進んでいた、ということが見落とされがちになってしまうのが一つの理由のようです。
その成果を留めている「混一疆理歴代国都之図」は、アフリカが海に囲まれているんですね。
フェルメール「地理学者」では外人さんがずっと絵の前に居て、間接的に係のお姉さんに注意されていました。
絵に関する解説は、絵を言葉で語りたいだけじゃないか、と思わせるようなあまり意味のなさそうなものも少なくないのですが、この「地理学者」は内容がぎっしり。
大航海時代で、「地理学者」の科学的知識は遠洋航海に必須のものなんですね。
ただ、この会場でもそうですが、「美の巨人たち」ですとか、この絵に関連したフェルメールの特集をみると、「ポルトガルの方式は、一種の大砲外交のような性格を、はじめから備えていたといわなければならい。」(福井憲彦「近代ヨーロッパの覇権」(興亡の世界史13) 46ページ)といった面に触れられていないですけど、これはオランダも同じで、アジア人として外せない所でしょう。
企業にとって、広い意味での文化性は、社会に存在するための必須の下地ですが、芸術など文化活動においては、逆に金銭がその基礎になることがあるんですよね。
この絵の地球儀はオランダの主な交易先であるインド洋を向いていて、そういう富が炸裂した瞬間が、この絵の中に封じ込められています。
ちなみにこの本には、「現在にいたるまで植民地支配のつけを払い続けざるを得ないヨーロッパ自身にとっても、この船出は不幸なものだったといわなければならないのである。」(同47ページ)と冷静な注釈が付いていますが、日本も「不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し」という東洋の理想に復帰するべき時が来たのではないかと思います。
嘘を重ね、今を蝕み、未来への負債を残して推進される原発は不義の富といえるでしょう。やはり長いスパンで歴史をみていくと、不義の富は積みあがらない、ということがいえると思います。
これから国の富を増やして行こうと思うなら、義のある富だけをカウントして積んで行くのが良いのではないかと思います。それにはやはり、再生可能エネルギーに力を集中させることが必須でしょう。
もしアジアの時代が来るとしたら、アジアの理念の復活で無ければならないと思います。その率先した担い手となることで、日本はこの世紀に立派な勤めを果せると思います。そして実際それが、社会の構造を洗練させることで、可能だと思うのです。
戻ってこの絵の人が着ているのはヤポンス・ロックという日本の着物なのだそうです。
同じ様なオランダ風俗画は多いのですが、やはり格別でしょう。手前の布の中間的な明暗、全体的に暖かな渋みがあるのがフェルメールの大きな特徴ではないかと。
ディルク・ファン・バビューレンの「歌う若い男」は手相まで確りしている、迫真の人物画。それに加えて臭みのある表情になぜか味があって、会場を出る前にこの絵と「地理学者」をもう一回見直してから出ました(笑)
ヘラルト・テル・ポルヒの「ワイングラスを持つ貴婦人」は当時の郵便制度と、大航海時代の富を表しているのだそう。この絵はそこまで凄くないですけど、心が美しい人は食べる姿もとても美しいものです。
静物画はピーテル・ド・リンクの「果物やベルクマイヤー・グラスのある静物」をはじめ、どれも精緻極まるもの。ここまでいったら、もう抽象方面に行くしかないな、という気もしてきます(笑)
同時代でいえば、東洋の絵、特に日本の絵は若冲のいう「神気」の様なものを、明確に描く対象として意識しているわけですが、西洋のものはそれを意識しないで、描いた結果それを名作だけが薫らせる、という違いがあると思います。これは日本舞踊とバレエの間にも、似たような事が解り易く観察できると思います。
ただ、もしかしたら印象派は例外で、だから日本で人気なのでしょう。
つまり優劣は別として、日本のものは本質が主で外面が従。西洋のものはその逆といえるでしょう。
今後どのような発想で絵が描かれていくのかはわかりませんが、まぁざっくりいって、結局レヴェルの高いものしか残っていけなくなるんでしょうねぇ。
風景画ではアールト・ファン・デル・ネールの「月明かりに照らされた舟のある川」が夕映えの情景のような美しさがあって、一等気に入りました。
やはりフェルメールは見事ですし、どれも本格的な作品ばかりが揃っていたと思います。遠路はるばる、お疲れさまでした。
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