最近、今年の6月号は面白かったので、ちょうど八年ぶりにレコード芸術を買ったのですが、良いですね。
八年前のはレコード店の分布を知るために買った物だったのですが、片山さんの濃い対談と珍しい写真が載っていて、読み返していて面白かったです(笑)
展覧会は、正月を過ぎた頃に、やっているのを知って、早速行って参りました。
魯山人といえば最近青空文庫で続々と入力して頂いている文章が面白いので、興味のある方はぜひぜひ。
最初の方にあった「染付鯰向付」は鯰型の器。静中に動を秘めていて、ぴちぴち跳ね出しそうな感じがします(笑)丸に点を打っただけの眼はチャーミングですし、景徳鎮の染付けの魚が飛び出してきた様でもあります。
濡額「瓦全閣」は、字そのものより、ノミの跡を残すことが目的のような額。
「昨日雨今日晴」は美の壷のオープニングのような、立体性が感じられる書。異端の書家と言われているそうですが、それはデザイナー的な眼を持っていたからかもしれません。
「金彩武蔵野鉢」うっすら青みがかった茶色が基調の、琳派風の鉢。宗達の屏風の月のようなものが描いてあって、ファンの心をくすぐります?
「色絵椿文大鉢」は椿にぼとっとした、原始的な力強さ、朗らかさがあって、まったりさせてくれます。九鬼周造の細い芸術、太い芸術という分類は面白いので、作家を見るたびにどちらに属するかな、と考えてみたりするのですが、本人が挙げる蕪村や、私が思うところの宗達などと並んで魯山人は太い芸術の典型だと思います。
私は作品をみると、この作者はどのくらいの繊細な感覚を持っていたのかな、と感じてみようとする習慣があるのですが、魯山人の作品にはそういう視線を投げかけると剛直に撥ねつけられるような感覚があって、不思議でした。形だけではなく、本質的に破格な芸術なのだと思います。
「織部亀甲形鉢」はいつもの恐竜的な皿。織部の緑はなんとも深い色を出すことがあるのですが、このお皿は焼け爛れた釉薬がどさっとのっているだけ。
このお皿に限らず、注意深く作品を奇麗事に仕立てないようにするのが、魯山人の得意技で、「最近最も人気があると言っても過言ではない芸術家」と解説で書かれていましたけど、繊細な芸術家ぶらないのが、魯山人の一番の強味ではないかと思いました。
「技巧を極度まで省略して、土をなまのまま生かす努力をした四方鉢」を作っていたそうです。
「玄関」はその織部焼きのような前衛な書。「伊賀釉鮑形大鉢」はアンモナイトに違いない、と思わせる鉢で、鮑を載せた写真が綺麗でした。
「良寛詩・竹林図」は良寛に倣ったような書ですが、良寛が素朴に真っ直ぐな線を引いているのに対して、魯山人の真っ直ぐには信念を感じました(笑)
魯山人の書は、一画の中で線に抑揚が殆ど付いていないのが特徴な感じで、武田双雲さんの書が直前に観た甲冑展に置いてあったのですが、まさに正反対。書家から書と認められていない?所は似ていますけど。
「志野芒絵四方平鉢」は清らかな白に芒が描かれて、赤が散らされた鉢。
製作風景については、「魯山人はこれらを悠々と軽口を飛ばしながら楽しそうに作っていたという」ということで、半泥子と共通しています。
「自画像」はなんとなく、ショスタコーヴィチを思い起こさせるような顔。魯山人の人生を憶うとき、芸術は切実なアートセラピーの一種であった、というのは、間違っていないと思います。
星岡茶寮の方針が書いてあって、「時と場合、人柄と嗜好とを考えて臨機応変の料理をこしらえる」とのことで、西岡常一棟梁が強調されていた飛鳥の精神の一つがこの様なことでした。
書く言葉としては「持ち味を生かせ」というのが好きだったようです。また、「春来草自生」という禅語が書かれていて、魯山人の人の個性に対する信頼は、やっぱり古典由来でもあったのだなぁ、と思います。
「染付蛍手ビールカップ」は蛍がちらちらする、軽快なカップで、確かにビールに合いそうです(予想)
今回最大の出し物は打ち捨てられていたという、晩年の壁画二枚。
「桜」は貝とか焼き物をはめ込んだ、マーブルチョコのような桜。
「富士」は涼やかに炎立つ、暖かさに溢れたきんきらきんの富士で、最後に足されたという木陰に隠れている姿が、絶妙。品と力を備えた、今まで観た富士の中でも、一番位に印象に残る作品でした。
人の絵を散々叩いてきたから、今度は僕の絵を叩いてね、との事が書かれていて、寂しがり屋だったという、魯山人の気持ちが微妙に胸に迫ります。
楽しくて貴重な展覧会だったというのが、素朴な感想です。日本とポルトガルの友情に乾杯です♪
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