サントリー美術館 生誕250周年谷文晁 第一展示期間 その2

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7月10日の武田鉄也は、1msvに決めたから福島の人は帰還できずに困っている。という事をいっていましたが、1msvというのは元に戻せという東電に対する当然の要求です。それかもしくは賠償をしろ、ということなのですが、経営が圧迫されている東電は極めて低い料金しか出そうとしません。それ東電の拝金主義なのです。1msvの基準ではなく武田鉄也のような東電の拝金主義にみなが困っているというのが本当なのです。

東京の水にもセシウムが含まれている、ともいっていましたがこれは本当です。本人は被曝しても生きていけるんだという意味でいっているみたいで、文脈は逆ですが。

東京でがん患者が増えることも予想されますが、東電に請求することは少なくとも現状では困難でしょう。ガンで死ぬ、までいかなくとも、不定愁訴のような形で症状が表れる人もいるだろうと思います。

そういったとき、またはそうではなくとも、東京都民が東電から相応の対価を受け取れるような取り組み、仕組みが必須だと思います。

電気料金で都民が賠償金まで負担しているような状況に今はなっていますが、本来はまったく逆でなければいけないのは誰の眼にも明らかです。

6月11日の朝日新聞の樋口陽一教授のインタヴューでは、象徴天皇制を褒め称えていますけど、最低退位すべきであったとか、天皇の戦争に対する区切りの付け方に言及してから、そのような議論を展開するのならするべきではないでしょうか。そういったものが無いこの制度が優れているとは思えません。
当時(今もですが)の論壇の状況からいっていい辛かったということなのでしょうか。

6月16日の朝日新聞では都議選を分析しており、コント集団の福本ヒデさんが「アベノミクスだけでなく、憲法改正や脱原発がどうなるのか」と書いているのに対して、佐々木信夫中央大学教授は「生活者の視点」を強調。確かにそれは重要ですが、福本さんと比べてもどうも抽象的でぼんやりしており、ぬるいような、、、、、。

これに限らず、この分野に限らず、学者のインタヴューなどで、本当にそう思っているのか、と感じさせる権力と親和的な発言を多く耳にしますが、権力に対しても学者としての学問的な視点が貫けるような教育を学者になるカリキュラムの中にしっかりと組み込むべきではないかと感じます。

6月18日の朝日新聞の松本雅和島根代准教授のインタヴューでは、九条の改正について「私自身は改正の必要を感じません」としつつも「侵略から守られたいと望むならありうる。」とありますけど、これは逆で、このような認識は極めて危ういと思います。

たとえば九条があるので周辺国との紛争が起こった時に、日本は被害者であると周囲に説明しやすくなり、そこから得られる国際世論は日本を守る方向に働くでしょう。

これがないと周辺国の理解を得ることに苦労するばかりか、こちらからの暴発の可能性も強まるといえます。

右傾化ということで、軍事化への慣性力がもたらした日本側の落ち度と取られる様なストーリーもありうると思います。

また、外交上においても戦争を反省した平和国家という戦後のイメージを守れなくなりますから、信頼やリーダーシップの面で大きくマイナスを蒙るのではないかと思います。

6月24日の「坐禅ってなんのためにするの?」というコラムでは、思念をなくして輪廻からの解脱を図った、とかかれていますけど、これは悪い意味で宗教的な解釈で、これでは現代人に対して意義のあるものとして坐禅を提示できません。

瑜伽行をやっていた人が向上しようとして行く中で、修行のために考え出したとするのが妥当でしょう。

また「当たり前の事が尊いと気づくのが、禅の究極の目的でしょう。」とあって、それはそうなんですけど、それでは結局、高橋ジョージで十分ではないか、という見方も出来ると思います。

秋月龍ミン師ですとかもそういう傾向がありましたけど、禅を身体的ではなく精神的に捉えすぎている所があると思います。例えば秋月師は禅は絶対無だから神を有とするカトリックの人は本当の坐禅を組むことができない、といっていましたけど、結局は坐禅は身体的なものであって丹田呼吸であるという側面がありますから、とりあえずそれなりの効果はあると思うんですよね。形だけなら道家にもヨガにもありますし。カトリックの人もヨガならすることが出来るでしょう。

海舟も危機に当たっては禅が役立った、と証言していますけど、禅はスローライフ実現系ではなくて、もっとも危急の時に一番役に立つもの、というような社会での広め方をしていった方が良いと思うんですよね。

いくらそういう利得を求めて坐禅を組んではいけないといっても、それは修行における状態のことであって、理に適うことをしていれば結局はそのような現世的な対応力のアップにもつながるのは当たり前の事といえるでしょう。

「驚愕! 東電幹部 原発再稼働へ向けて猛暑を念じ、経産省幹部へメール〈週刊朝日〉」(http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130710-00000002-sasahi-soci)は無残な内容で色々いうべき事はありますが、一番はやはり事故に対する悔恨の情がまったく欠如していることでしょう。
そういったものを欠いて、市民の利益を犧牲にして、国を誤った方向に導き、自らの利益のためだけに再稼動にひた走る姿はすでに人間とはいい難いのではないでしょうか。

これも全く責任を取らないでやり過ごすつもりなのでしょうか。

「福島第1原発:汚染水、海洋流出疑い強く…対策部会設置へ」(http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20130711k0000m040055000c.html)のニュースでは各テレビで、他の作業があって対策が出来なかった、という恐らくは東電側の主張をそのまま流していましたが、そういうわけはありません。同時平行でいくらでもできるはずです。どうしてもできなければ国土強靭化の分をまわしてくればよいだけともいえます。

7月11日のモーニングバードで玉川さんがそもそもそ総研で2011年の6月に取り上げたし、当時から有識者が地下ダムの必要性を訴えていた、といっていましたけど、小出さん等が強く主張していて、それを無視した結果であるという事を伝えねばなりません。

海を汚染したということで海外から訴訟を起こされる可能性もあるとのこと。こういったところは怠慢であってアクシデントとは強弁できませんからね。

再び風評被害を引き起こすのではないかという恐れがある、と高木美保さんはいっていましけど、風評被害ではなくどうみても実害です。高木さんはこの前の「教師いじめアンケート書き換え 小3女児の目の前で」(http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000008530.html)のニュースでも、健全な喧嘩を教師が許容しようとしたのではないか、といっていましたけど、そのような見識がある教師はこのような隠蔽の仕方は取りません。いじめが無いと瑕瑾が無いかのように振舞うと出世する仕組みがある以上、そのような意見をここで採るのは、そういった大義名分でいじめを放置することの横行を招きかねず(実際横行していますが)とてもおかしいと思います。

どうも高木美保さんはおかしなコメントが目立つ人です。

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