サンデーモーニング「風を読む」 天野祐吉追悼

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「風を読む」では天野祐吉さんの特集。

1927年に作られた添田唖蝉坊の「金金節」を紹介したコラムを紹介。

江戸時代は市場経済が非常に発達していましたが、こういうような歌があったという話は聞きません。

商人が身上をすべてはたいて、武士の身分を買うということが当時はあって、身分制における権力へのあこがれと解釈されることが多いですが、武士階級の精神性へのあこがれだったのではないか、とも最近は感じます。

市場経済の一方で、高潔な精神性へのあこがれというのが社会に脈打っていたのではないかと思うのです。

「往生要集を読む」((講談社学術文庫) 中村 元 (著))によると、「地獄の哲学的意義は、シナの天台大師によって特に深められた。地獄はわれわれを離れたところにあるのではなくて、われわれ自身のすがたなのである。」(55ページ)とのこと。

(ちなみに補足すると、中村元さんや白川静さんは、ご自身の信念でシナと書かれています。

シナという言葉はいわゆる漢民族が住む中国の領域についての語で、当時の西域であるとか、内蒙、チベットといった所を含む、現代の中国という言葉を使ってしまうと学問的厳密を欠くのでシナという言葉を使っていると書かれていました。

杉山正明さんの著書によると、最近はチャイニーズメインランドであるとか、チャイナプロパーというらしいのですが、こなれていないいまだ定着していない用語であって、前世代の白川静さんや中村元さんが、学術的な意味でシナと用いるのは自然なことであろうと思います。

加藤徹さんの著書にはシナと呼ぶことへの批判が書かれていて、それは最近の歴史修正主義的な右翼に対してはその通りなのですが、この場合は当てはまらないといえるでしょう。

逆に二人の著書のシナの部分を中国に直してしまうと、かなりおかしなことになってしまうといえます。)

例えば「「餓鬼」とは(中略)常に飢え・渇き・苦しみに悩まされて、たまたま食物を得ても。これを食べようとすると、炎を発して食べることができないという。」とのこと。

現実の金の亡者などは、実際にお金のたまっている人は、食べている、とも言えますが、欲求不満が癒えないといレヴェルにおいては、彼は食べていないともいえる。餓鬼の描写はそのような状況を表しているとも解釈できるでしょう。

つまりかつての日本人は、地獄の餓鬼といったものを、現実の暗喩として捉え、今のあの人は餓鬼のような状態なのではないか、と思ったり、自分の行動を振り返って、これでは餓鬼のようではないか、と自らの問題として捉えていたということです。

振り返って現代では、この地獄の哲学的な部分は忘れ去られてしまっているといえるでしょう。このような外的・内的な反省がなされる機会も少なくなっています。これは東洋的な遺産を投げ捨てているものであり、非常に大きな文化的な退行であって、社会でものすごい「貪り」が放置される原因になっていると思うのです。

江戸東京博物館 五百羅漢-増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師 狩野一信
平泉が世界遺産に入りましたね!浄土関係のこの展覧会にあわせて、喜びを圧縮していました。シドニーのオペラハウスが入って、平泉が入らないというのは、おかしいでしょう。遺産としての厚みに、隨分差があると思います。中島誠之助さんがいう所の、生産可...

ただ、現代では子供に躾として地獄絵図を見せることが流行しているそうですけど、これはどうでしょう。

悪いことをするとこのようになる、ということですが、委縮させるような方向ばかりに導くと良くない。

このような地獄の哲学的な理解に、後に至るようになるような環境が必要です。昔の人もとりあえずはただ観ていただけだっただろうとも思いますが。

また、この特集を観ていて再び思ったのは、文化力の経済性、ということです。前に司馬遼太郎さんは文化を「癒し」としか捉えておらず、成長するという効用を認めなかったので、癒しならいいや、と思った社会・個人が文化を捨てるに至り、主体的にかかわるということをやめたために、非文化的なバブル現象が起き、崩壊するに至った、ということを書きました。

404 NOT FOUND | 社会通鑑~See through the media&society~

90年代のバブル崩壊について経済学的に書かれた本を読むと、一通り解説した後に、これだけでは説明できないので社会学的な考察を望む、と書き足されているものがありますが、わたしのこの視点は、それの答えになるものであろうと自負しています。

他にも、広範な事象をこのことで説明できるでしょう。

そして、これにさらに付け加えるなら、司馬遼太郎さんには「文化の経済性」という視点もなかった。原発事故にしても、水俣病にしても、他の公害事件にしても、高い文化力があれば起きなかった、もしくは本当に初期の段階で済んでいた。そうであれば、文化力がなかったために、損なった健康・国土、損したお金が膨大であるということです。

文化力があれば、消えた年金もなければ、グリーンピアも無いでしょう。原子力ムラはあのような不法な工作をせず、政官財のトライアングルも癒着を形成せず、私欲に基づく天下りによる業界の癒着は存在せず、バブルも起きなければやはり原発事故も起きない。司法は歪んだ外的要因や出世などによって左右されることがなくなり、大学は適度な数だけ建設され、捏造論文も激減し、世界からは信任のおける国だと思われることでしょう。

もちろん無責任国家は卒業です。

まだまだあげたらきりがありませんが、そういった国を築くのは可能だと思っています。

天野さんの主張とは全く異なりますが、経済成長をしたいなら、文化力を鍛えるべきだと強く言いたいです。

原発に関してのコラムは、原発を稼働して経済成長か、文化的成熟か、の二択を問いかけるもの。事故前からあった原発は高いという議論や、事故後に深まって常識化されていった原発に対する常識を受け継いでいないところが痛く、新聞に連載できていた所以であるといえるでしょう。

これは新聞連載でも私も非常に気になったところで、見識不足とは言えますが、最後は晩年だったわけで、アンテナの感度が微妙に鈍っていたのは、ものすごく強くは責められないとは言えるでしょう。

(他にも、天野祐吉さんは、電通の寡占や違法ともいわれる影響力についても話していたのを聞いたことがないですね。

「指原の乱」でもりのさんは結局最後は電通と交渉することになり、その影響力の強さがうかがいしれます。

これや総括原価方式への批判、といったことも、「広告批評」という看板からすればあってしかるべきだった。もっといえば、事故前からあって良かった。

文章も多く読んでいるわけではないので、知らないところで書かれているのかもしれませんが。別に朝日新聞紙上で書いても良い、書くべき話題でもありますしね。

そんなにどす黒い人とは思わないんですけど、広告の表現の部分や、社会の空気に関しては書いても、自分が損をするようなジャーナリスティックな視点は持てなかった人だったのかもしれませんね。

それでも爆笑問題などよりはまだまともだったということはできるでしょう。猛烈な人材難の中での比較ではありますが。)

これに対して、寺島実郎三井物産戦略研究所会長が待ってましたと、東京オリンピックのころの一人800ドルのGDPに戻れるのか、批評ではいえるが、政治には政策的緊張感がある。と説明。

原発が出来、本格的に発電を始めたのは高度経済成長後であり、むしろブレーキをかけた存在だったのではないかという、経済の流れも感じます。原発にまつわる産業の在り方をみていると、大企業病が国単位で致命的に発症したものが原発であるともいえるでしょう。

原発が高いということは事故前から言われており、複数の人が計算して、学問的な成果として明らかになっています。現に事故前から日本の電気料金はとても高いものでした。さらに事故のマイナス、処理のお金を加えると、経済のお荷物にしかならないのです。

テレビの製作スタッフのそのようなことは、いくらか知っている人がいるはず。このようなところをわざわざ強調したりせず、強調したとしても訂正なり補注を入れる義務がありました。学問的に正しい見識を放送するのがテレビ局の責務ではないのか。

萱野稔人さんも、二者のうちで文化的成熟を選択するスタンス。人口減少は必然だから、とは言わないで、少子化対策の政策提言を強力にする義務があると思います。

若手なのに(だから?)何か随分悪い意味でおとなしい人だなという印象。

原発は安いというロジックを中心に放送できた特集としてTBSにもある種の「充実感」あったのではないでしょうか。もちろんこれは最大限の皮肉ですが。

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