鉞子(えつこ) 世界を魅了した「武士の娘」の生涯(内田 義雄 (著)) その1

物語の最初は戊辰戦争の時に長岡藩の家老として河井継之助と対立した鉞子の父の稲垣平助の話しから。

そういう予感もしていたんですけど、いかに河井継之助が固陋で馬鹿で判断力が無かったのかがわかります。

司馬遼太郎の「峠」を史実の側面から批判する書である、というのがこの本のもう一つの本質です。

河井継之助は「リアリズム欠ける。」(53ページ)と書かれていますが、これなどは多分に「峠」を意識した部分でしょう。

「峠」で岩村精一郎が一方的に悪いとされていた小千谷談判も河井に非があります。

対立にもかかわらず河井家の家財道具を守ってくれていた稲垣家を河井が焼き払うところなど、人間的にも本当にどうしようもないです。

73ページには河井継之助の評価の変遷についての記述が。故郷を灰燼に帰して恨まれていたのが、次第に評価されるようになったのだそうです。

「それは明治という国家が軌道に乗ることと連動していたといえる。」「仕えるべき「主君」が徳川家や藩主から天皇に代わっただけなのである。「主君」天皇のために命を捧げよ、敵に降伏するくらいなら、死ぬまで戦え、そうした国民教育が徹底されていくのである。」「こうして「主君」に殉じた河井継之助や山本帯刀は、時代と共に次第に再評価されるようになる。」とありますが、これは直接つなげるのは間違いです。

事実として長岡藩には藩主の命に背いても稲垣平助や安田鉚蔵や酒井貞蔵のような恭順論者が沢山いました。彼らは主君ではなく領民のいる藩全体に忠誠を尽くしていたのです。

「江戸武士の日常生活」((講談社選書メチエ) 柴田 純 (著))で指摘されている、江戸期の天に対する滅私奉公が明治になって天皇に対する滅私奉公にすり替えられたことに対応した「再評価」であると考えるとすっきり整理できます。

つまり日本という全体が滅びようと何も考えずに天皇に忠誠を尽くせとした戦前の教育に河井らのほうが沿う存在だったのです。

「峠」という小説は、こういった戦前から連なる「滅私奉公」の精神を「無私」と「公」に分解して戦後に司馬遼太郎さんが受け継いだ証であり、それらの言葉の性質を示すものなのではないかと考えます。

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